南部の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 08:39 UTC 版)
旧両シチリア王国の南部では1860-61年のガリバルディによる征服中から、ブルボン王党派や不満を持った民衆による暴動が頻発しており、新政府はこれらの反乱勢力を「山賊」(brigante)と呼んだ。新生イタリア王国の実態に幻滅した人々はバジリカータ、カンパニア、カラブリア、アブルッツォの山岳地帯を拠点に官吏や地主を襲撃し、イタリア政府に対するゲリラ活動を行った。「山賊」の構成員は旧両シチリア王国軍の兵士や農民であり、著名な指導者にはカルミネ・クロッコ、ニコラ・ナポリターノ(英語版)そして女山賊ミケリーナ・デ・チェーザレ(イタリア語版)がいる。 イタリア政府は1863年に行政官に強権を与えるピーカ法 (Legge Pica) を制定し、政府軍の2/3を南部に駐留させ、徹底的な弾圧を行って「山賊」活動を鎮圧したが、政府軍による残虐行為も報告されている。1866年にオーストリアとの戦争が始まると南部の軍隊を引き揚げたため、シチリアで大規模な反乱が起こり、反乱勢力がパレルモを占拠する事態となった。反乱はイタリア政府軍により鎮圧され、政府は「山賊」とマフィアそして聖職者による陰謀であったと主張した。これら政府と南部住民との絶え間ない軋轢から、北部の人々が南部を「未開と貧困の地」と見なす差別意識が生じるようになった。
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