政権No.2へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 14:49 UTC 版)
「イッザト・イブラーヒーム」の記事における「政権No.2へ」の解説
1979年、サッダームの大統領就任と同時に、革命指導評議会副議長及びバアス党地域指導部副書記長兼バアス党民族指導部副書記長に就任。RCC副議長は議長(大統領)が非常の場合に大統領代行を務めるため、事実上の政権序列第2位の地位を占めた。 1980年代後半に党北部局副議長に就任した際には、クルド人の弾圧を目的にした「アンファール作戦」を指導。クルド人住民に対する大量虐殺に関わったとされる。 RCC副議長として、1980年のイラン侵攻、1990年のクウェート侵攻の決定に関与しており、1991年の湾岸戦争中に起きたイラク軍のサウジアラビア領内への侵攻はイブラーヒームが提案したとされる。 また、湾岸戦争後にイラク軍副総司令官に任命され、シーア派・クルド人の反政府蜂起の鎮圧を指揮した。特にイラク南部の湿地帯に住むマーシュ・アラブ人の住む湿地を干上がらせて住民環境を破壊し、蜂起に加担したマーシュ・アラブ人への懲罰措置を実行したとされる。 南部の反乱を鎮圧させると北部に向かい今度は、クルド人の反乱を戦闘ヘリも使用して、容赦無く鎮圧した。この時、『ハラブジャの出来事を忘れたなら、我々は同じ活動を繰り返す準備が出来ている』と語ったとされ、暗にハラブジャでの化学兵器による住民殺害事件に触れて警告した。 1992年2月には、ニーナワー県知事に任命された。 1995年にはサッダームの長男ウダイ・サッダーム・フセインとイブラーヒームの娘が結婚した(後に離婚)。一時期にしろ、サッダームと姻戚関係になった。 政権第2の実力者になったイブラーヒームは、故郷アッ=ドゥールの出身者である、ドゥール閥の人間やスーフィストを党、治安・情報機関、軍の幹部に数多く登用して自らの権力基盤を固めた。ジュムフーリーヤ(共和国)広場で行われる軍事パレードでは、サッダームの右隣にいることが多かった。 1998年のアメリカによる「砂漠の狐作戦」における空爆が始まると、北部軍管区司令官に任命された。対クルド対策を実績をサッダームに見込まれたためと見られ、2003年のイラク戦争時にも、北部軍管区司令官に任命されている。 1999年2月16日、白血病の治療のためオーストリアのウィーンに滞在中に同国の国会議員であるペーター・フィルツが、クルド人大量虐殺の容疑でイブラーヒームを逮捕するよう、オーストリア政府に求めたため、慌てて出国したことがある。 2002年のベイルートで開かれたアラブ首脳会議ではサッダームの代理として出席。クウェート外相、サウジアラビアのアブドゥッラー皇太子と会談し、湾岸戦争後に険悪化した両国との「和解」を演出した。またクウェートの主権を認めると発言して従来の政権の見解である「クウェートはイラクの領土」という見方を修正する発言をした。 同年9月のバグダードでのアラブ議会連盟の会議においてアラブ諸国に対して「アメリカ・シオニストの脅威」に対抗するよう呼びかけた。 イラク戦争開戦直前の2003年3月5日、ドーハで開かれたイスラム諸国会議機構に出席、アメリカ軍の自国駐留を認めた湾岸諸国を舌鋒鋭く非難、特にクウェートを「イスラームの裏切り者で米国の代理人」と集中的に批判し、これに怒った同国代表が反論すると「黙れ猿!」と罵倒した。
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