湾岸戦争後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 20:05 UTC 版)
「アリー・ハサン・アル=マジード」の記事における「湾岸戦争後」の解説
湾岸戦争停戦後、南部でシーア派住民による反政府蜂起(1991インティファーダ)が起こると、1991年3月に内務大臣に任命され、共和国防衛隊による反乱弾圧を指揮した。この反乱鎮圧作戦は苛烈を極めた残酷なものだった。女性や子供も含む何百人というシーア派住民が即刻処刑され、数千人に上るシーア派ウラマーが逮捕され、殺害された。捕らわれた住民は拷問を受けた後、戦車で轢き殺されたり、生き埋めなどの残虐な殺され方をした。カルバラー等にあるシーア派モスクや聖廟も容赦無く破壊された。 アリー・ハサンは自身が反乱を制圧する様子を映像に記録しており、その中で戦闘ヘリコプターのパイロットに対して「全員焼き尽くした報告をするまで帰ってくるな。焼き尽くすまで帰ってくるんじゃない」と命令する様子や、捕まった捕虜に自ら暴行を加えたり、尋問する様子が写っている。これらの映像は後に各自バアス党幹部に配布されたと言う。 南部の反乱が平定されると、今度は同時期に同じく蜂起したクルド人勢力の鎮圧に乗り出し、戦車や戦闘ヘリを使い制圧した。この時クルド人は再度、アリー・ハサンによる虐殺と化学兵器使用を恐れ、トルコ国境まで逃亡した。 1991年11月に国防大臣に就任、翌年2月にはタミーム県知事に任命される。1995年5月、イラクの一大部族集団、ドゥライミー閥出身の空軍幹部がクーデター容疑で処刑されたことを契機による大規模な反乱が発生。反乱は押さえ込まれたものの、事件をすぐに鎮圧出来なかった責任を問われ、アリー・ハサンは国防相を引責辞任させられた。しかし、革命指導評議会メンバー及び党サラーフッディーン県支部長の地位には留任した。その数ヵ月後に、アリー・ハサンの甥であり、サッダームの従兄弟で娘婿のフセイン・カーミルとサッダーム・カーミルが家族を連れて隣国ヨルダンに亡命する事件が発生。一年後に二人は説得されて、帰国するが、サッダームはアリー・ハサンに「一族の名誉を貶めた」として殺害するよう命じ、激しい銃撃戦の末、二人の甥は殺害された。しかし、2002年には、もう一人のアリー・ハサンの甥が同じくヨルダンに亡命、彼もまた、帰国後に殺されている。 1998年に米英両軍による砂漠の狐作戦が始まると、イラク軍の南部管区司令官に任命された。これはサッダームが米英軍の攻撃で再度、シーア派が蜂起せぬよう、すでに91年蜂起の鎮圧で実績のあるアリー・ハサンを重宝した人事と見られる。 1999年にアーヤトッラー・ムハンマド・サーディク・アッ=サドル(英語版)がナジャフで息子と共に暗殺された事件を契機に、再度シーア派信徒による大規模な反政府蜂起が発生した際にも弾圧を指揮し、バスラでは約120人を処刑したといわれる。サッダーム政権崩壊後に、人権団体の調査でアリー・ハサンが処刑と遺体の埋葬を命じたという証言と命令書が発見されている。
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