湾岸戦争と米軍駐留・サウジアラビアからの追放(1990–2000年)
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「ウサーマ・ビン・ラーディン」の記事における「湾岸戦争と米軍駐留・サウジアラビアからの追放(1990–2000年)」の解説
1990年8月2日、サッダーム・フセインのイラク軍がクウェートに侵攻し、サウジアラビアとの国境に到達した。サウジアラビアがイラクからの脅威に直面する中、ビン=ラーディンはファハド国王およびスルターン国防相と会談を行い、国内に異教徒のアメリカ軍を駐留させる代わりに、自らのムジャーヒディーン軍団によってサウジアラビアを防衛する計画を提案した。しかし、サウジアラビア王家はビン・ラーディンによる提案を拒絶し、最終的にはアメリカ軍のサウジアラビア駐留を認めた。1990年8月7日、アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュはアメリカ軍のサウジアラビア派遣を発表し、同軍は8月8日からサウジアラビアへの展開を開始した。 ビン・ラーディンは、非イスラム教徒がアラビア半島に常駐することは預言者ムハンマドによって禁じられていると解釈しており、メッカ・マディーナという2つの聖地を抱えるサウジアラビアに異教徒のアメリカ軍が進出したことに憤慨した。それと同時に、駐留を許したサウジアラビア王家(サウード家)を「背教者」として糾弾した。湾岸戦争が引き金となったアメリカ軍のサウジアラビア駐留は、ビン・ラーディンを急速に反米活動に傾倒させていった。 1991年、サウジアラビア王家はアメリカ軍との同盟関係への批判を繰り返すビン・ラーディンを国外追放に処した。サウジアラビアを追われたビンラーディンとその一派は、当初はアフガニスタンで亡命生活を送ったが、1992年までにスーダンに移動した。アフガニスタンに滞在中の1992年3月から4月にかけ、ビン・ラーディンは激化するアフガニスタン内戦の仲裁を試み、グルブッディーン・ヘクマティヤールに対して他のムジャーヒディーン指導者と協力するよう呼びかけていた。
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