湾岸戦争期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/30 18:06 UTC 版)
「第7軍団 (アメリカ軍)」の記事における「湾岸戦争期」の解説
第7軍団は冷戦中、ワルシャワ条約機構軍と砲火を交えることはついになかったが、1990年8月、イラクによるクウェート侵攻ののち、第18空挺軍団に続く第2波の部隊としてサウジアラビアへ派遣された。 当時、第7軍団(フレデリック・フランクス中将指揮)は冷戦期の通常編成よりも多くの部隊を指揮下に置き、4個機甲師団に加えて強力な機甲戦力を構成していた。すなわち、次のような編成である(師団以外省略)。 詳細は「湾岸戦争の地上戦における戦闘序列(英語版)」を参照 第7軍団 - フレデリック・フランクス中将 第1機甲師団 第3機甲師団(英語版) イギリス第1機甲師団(英語版) 第1歩兵師団(機械化) 第1騎兵師団 第2機甲騎兵連隊(英語版) 2月24日からの地上戦、「砂漠の剣作戦」では第7軍団は多国籍軍の主攻を担当、側面を第18空挺軍団に守られながらイラク領を進み、転針してクウェート国境に達するという、いわゆる「左フック作戦」を実施した。第2機甲騎兵連隊と共和国親衛隊第3機械化師団「タワカルナ」との間で行われた73イースティングの戦いをはじめとする約100時間の数々に及ぶ戦闘において、第7軍団はイラク陸軍と共和国親衛隊の部隊を蹴散らし、多国籍軍の勝利に貢献した。第7軍団の損害はアメリカ兵・イギリス兵合わせて341名であった。
※この「湾岸戦争期」の解説は、「第7軍団 (アメリカ軍)」の解説の一部です。
「湾岸戦争期」を含む「第7軍団 (アメリカ軍)」の記事については、「第7軍団 (アメリカ軍)」の概要を参照ください。
- 湾岸戦争期のページへのリンク