南部の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 09:00 UTC 版)
一方で多くの南部人は地域を「奴隷制度廃止化」する農夫に土地を与える「急進的」考え方に不満を漏らしていた。南部地域主義の理論はJ.D.B・デボウのような人物によって1857年の恐慌以前に発展させられていたが、この恐慌は多くの綿花男爵達に東部の金融業の利益に頼りすぎるようになっていたことを認識させた。 「デモクラティック・レビュー」の元編集者トマス・プレンティス・ケッテルは南部で人気があるもう一人の論説者であったが、1857年から1860年の間は特に著名となった。ケッテルはその著書「南部の富と北部の利益」の中で統計データを整理し、南部は大きな富を生み出したが、北部は原材料に依存しながら南部の富を吸い上げたとした。北部への製造業の集中と、北部が通信、輸送、金融および国際貿易で勝っていることからくる地域間不均衡を論じ、製造と貿易の全ての利益は土地から生まれているという古い重農主義原理を持ち出して比較した。バーリントン・ムーアのような政治社会学者は、このような類のロマン的懐古主義は産業化が確立したときはいつも出てくるものだと記した。 自由農民に対する南部の敵意は、北部に西部の農民と連携する機会を与えた。1857年から1858年にかけての政治的な再編成の後、共和党の力が強まったこととその地域の支持基盤が全国にネットワーク化されたことでも明らかなように、ほとんど全ての問題は西部の奴隷制拡大に関する論争に綯いあわされていった。関税、銀行政策、公共土地および鉄道への助成金といった問題は、1854年以前の政党政治のもとで南部の奴隷所有者の利益に対抗する北部と北西部のあらゆる要素を常に一体化するという訳ではなかったが、西部の奴隷制拡大の問題が生じると、党派間抗争のタネとされるようになった。 不況が共和党を強くした間に、奴隷所有者の関心は北部が南部の生活様式に対して急進的で敵対的な構想を抱いているというふうに確信するようになった。こうして南部は脱退の土壌が出来上がりつつあった。 共和党は、ホイッグ党的な人物によって推進された「万歳」(hurrah)キャンペーンで、リンカーンの登場の時に奴隷州のヒステリーを掻き立て、党派的な傾向を強めたのに対し、南部の「けんかっ早い人」(fire eaters)は北部や西部の共和党支持選挙民の中にあった「奴隷勢力陰謀」という考えを裏付けた。南部が奴隷貿易を再開したいという要求を出したとき、党派間の緊張関係がさらに高まることになった。 1840年代早くから南北戦争の勃発まで、奴隷を維持する経費は確実に上がり続けた。一方で綿花の価格は原材料にありがちな市場の変動を経験していた。1857年の恐慌以後、綿花の価格は下落し、奴隷の価格は急速に上がり続けた。1858年の南部における商業会議で、アラバマ州のウィリアム・L・ヤンシーはアフリカ人奴隷貿易を再開することを要求した。国内交易で利益を得ていたアッパー・サウスの州の代議員のみが奴隷貿易の再開に反対したが、これは彼らが国内における潜在的な競合の可能性を予見していたからであった。1858年の会議は幾つかの保留事項を除いて奴隷輸入を禁じるあらゆる法律の撤廃を推奨する投票まで行き着いた。
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