南部の戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 08:53 UTC 版)
ルソン島南部の振武集団は、マニラ陥落後、東方の山地から南部沿岸に展開し持久戦を行った。この時点での兵力は10万人を超えていたが、船舶部隊や海軍部隊を多数含むうえ、隷下2個師団のうち第105師団を北部に転進させたため、実力は第8師団を中核とした1個歩兵師団強の戦力であった。 マニラ市街戦も終盤の2月23日、アメリカ軍第6師団、第43師団と1個連隊が、振武集団の第一線陣地に対する包囲攻撃を開始した。アメリカ軍は、猛砲撃の後に戦車を中心にして包囲を強めていった。対する日本軍は3月中旬頃から第二次総攻撃を行って反撃し、これによりアメリカ軍第6師団長に重傷を負わせ、第1連隊長を戦死させるなどの戦果を挙げた。しかし、結局3月下旬頃になると日本軍は第一線陣地の放棄を余儀なくされ、第二線陣地へと退却した。4月になると、アメリカ軍は3個師団を投入して最終的な包囲攻撃に移った。日本側の振武集団は北方の主力群のほか、バタンガスの藤兵団(歩兵第17連隊基幹)、ビコール半島駐留の後方部隊であるビコール支隊の3つに分断されてしまい、苦戦を強いられることとなった。うち藤兵団は、第105師団の北部移転を秘匿する目的の陽動部隊で、1個連隊基幹の小部隊であるが師団以上に見せかけるために「兵団」と称していた。 主力部隊と藤兵団はそれぞれの第二線陣地に篭り、米軍と激しい攻防戦を行っていたが、そこからも撤退せざるをえなくなった。6月ごろには集団としての組織的戦闘が不可能な状態に陥り、小部隊に分散して高山地帯での持久戦へと移行した。主力部隊を率いる横山中将は9月に入って終戦を知り、9月8日に降伏文書へ署名した。 一方ビコール支隊は4月1日より夜戦を中心として戦ったが、4月末までには相当の被害を受けた。その後も通信機の不調から終戦を知らないまま戦闘を続け、11月に入って通信が回復するまでゲリラと交戦していた。11月20日に米軍の管理下へ入ったが、そのときは兵力2400名が700名にまで減っていた。 振武集団全体では初期兵力約10万5000名のうち戦死6万名、マラリアや飢餓などによる戦病死15000名、行方不明13000名、捕虜1600名の損害を終戦までに受けた。終戦直後に米軍施設に収容された者は約13000名で、このほか終戦後も連合軍やゲリラと戦っていたとみられる者がビコール支隊などの2500名であった。
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