南部の準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 04:37 UTC 版)
「ポートロイヤルの戦い」の記事における「南部の準備」の解説
チャールストン港のサムター要塞砲撃で戦争が始まった直後に、南軍のP・G・T・ボーリガード准将は、ポートロイヤル・サウンドの両岸にある2つの砦が離れていてお互いを支えることができないために、ここを適切に守ることができるとは考えなかった。ボーリガードはサウスカロライナ州知事フランシス・ピケンズに押し切られる形で、サウンド入り口に2つの砦の図面を描き上げた。間もなくバージニア州の南軍で仕えるよう呼び出されたために、その計画を実行する任務をサウスカロライナ軍技師のフランシス・D・リー少佐に託した。戦前、リーは建築家であり、チャールストンで幾つかの教会を手掛けていた。 2つの砦建設工事は1861年7月に始まったが、緩りとしか進まなかった。建設に必要な労働力は地元のプランテーション所有者から奴隷を確保することになったが、奴隷所有者達はあまり気乗りではなかった。攻撃が始まったときに建設は完了していなかった.。ボーリガードの計画は、彼が望んだ重砲が得られなかったために修正された。大砲の火力が減じたことを補うために、ウォーカー砦の海側砲台の場合、10インチ (254 mm)コロンビヤード砲7門から小さな口径の大砲12門と10インチ1門に変更された。数が増えた分を利用できる空間に配置するために横移動部を排除する必要があった。よって、砲台は縦射に対して脆弱になった。海側砲台の13門の大砲に加えて、後方陸側からの攻撃を撃退するために7門、右翼に3門が据えられた。砦には他に2門の大砲があったが、据えられることは無かった。ボーリガード砦もほぼ同じくらいの装備だった。やはり海峡を向いて13門が据えられ、陸からの攻撃には6門が据えられた。守備隊の数も増やされた。8月半ばにチャールストンに近いワグナー砦の近辺にいた687名が移動した。11月6日に450名の歩兵と50名の砲兵が加えられ、同じ日にジョージア州から別に650名が到着した。この2つの砦は孤立した位置にあったので、ボーリガード砦の守備隊は容易に増やせなかった。フィリップス島の部隊は640名であり、そのうち149名は砦の中に、その他の歩兵は陸からの攻撃に備えた。輸送手段が無かったために、後から追加された守備隊は全てウォーカー砦に入ったままだった。 砦を建設している間に、ジョージア州は数隻のタグボートや港湾用の船舶を砲艦に転換することで原始的な海軍を形成した。公海上で北軍の海軍艦船と立ち合うことはできなかったが、その喫水が浅いことでサウスカロライナ州やジョージア州海岸の内陸水路に自由に入ることができた。その指揮官はジョサイア・タットノール海軍将官だった。ジョージア州海軍がアメリカ連合国海軍に転籍されてその一部となったとき、タットノールはサウスカロライナ州とジョージア州両方の海岸を守る責任を持たされた。ポートロイヤル・サウンド近くには4隻の砲艦を持っていた。1隻は沿岸航行船を転換したものであり、残り3隻はタグボートを転換したものだった。それぞれ2門の大砲を備えた。
※この「南部の準備」の解説は、「ポートロイヤルの戦い」の解説の一部です。
「南部の準備」を含む「ポートロイヤルの戦い」の記事については、「ポートロイヤルの戦い」の概要を参照ください。
- 南部の準備のページへのリンク