南部の獲得
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 03:30 UTC 版)
「アメリカ合衆国共和党の歴史」の記事における「南部の獲得」の解説
レコンストラクション期から約1世紀もの間、「南部の白人」は民主党とほぼ同義語であった。アパラチア山脈の一部では共和党が勢力を握り、また境界州(奴隷州であるがアメリカ連合国に加入しなかった諸州)では民主・共和が争っていたものの、「ソリッド・サウス(英語版)」と呼ばれた地域での民主党の地盤は極めて強固であった。1948年以前は、南部の民主党員は自党が州の権利を尊重し、伝統的な南部の価値観を認め、南部の生活様式の守護者であると信じていた。そして、自分たちにとって不利な計画を推進する北部の自由主義者や共和党員、公民権運動家を「外部の煽動家」と公然と非難しており、南部の人間が共和党員になるには大きな壁が存在していた。 ところが、1948年の党大会において公民権を強く支持する綱領が採択され、南部の党員は抗議の退場をした。2週間後には、トルーマン大統領によって軍内の人種差別を禁じる大統領令9981号(英語版)が発令された。ディープサウスの党員は離党して州権民主党(ディキシークラット)を結党し、大統領選挙にはサウスカロライナ州知事ストロム・サーモンド(後に共和党に入党)を候補として指名した。しかしその他の地域の保守党員は党に留まってトルーマンを支持した。ディキシークラットは選挙後解散し、党員は民主党に復党したが、民主党内の南北分裂はその後も続いた。 ケネディ政権において、民主党は公民権運動を推進し始め、1964年、ジョンソン政権下で公民権法が成立するに至って、南部の地盤は決定的に崩壊した。南部の白人は人種統合政策と公民権運動に激しく反発し、州の権限を侵すものであると抗議した。裁判所の判決と64年・65年の公民権法によって人種隔離が違法とされても、民主党のアーカンソー州知事オーヴァル・フォーバス(英語版)やジョージア州知事レスター・マドックス(英語版)、特にアラバマ州知事ジョージ・ウォレス等の強硬派は人種統合に抵抗した。これらのポピュリスト的な知事を支持したのは、経済政策では民主党を支持するが、人種隔離政策廃止には反対する比較的低学歴のブルーカラーであった。 しかし、実際のところ、この頃までに南部もアメリカのその他の地域と同じようになり、人種隔離政策を続けることはできなくなっていた。近代化によって南部にも工場や全国規模の企業が生まれ、アトランタ等の大都市が成長し、北部から多くの移民が押し寄せ、高等教育の機会も増大した。一方で、綿花と煙草栽培に依存する南部の伝統的な経済は衰退し、農民は都市部に移動するか工場労働者へと転身した。人種別の食堂や宿泊施設を必要とする人種隔離法は、企業経営にとっても重大な障害となっていた。1965年以後、南部のほとんどの人々はほぼすべての場において人種統合政策を受け入れた(公立学校を除く)。 こうして南部の政治問題は、長年支配されてきた人種問題から解放された。民主党を支持する意味がなくなった南部の白人保守層は、新興中産階級と北部からの移民を支持層としていた共和党へと鞍替えしていった。共和党も党勢回復のために、南部保守層の積極的な取り込みを戦略に据えた。逆に、かつては共和党の支持基盤であったアフリカ系アメリカ人の票は、ニューディール政策や民主党幹部の公民権運動支持によって、次第に民主党へ向かった。1940年には、北部の黒人の多くは民主党に投票するようになっていたが、南部では黒人が民主党から締め出されていた。1963年、連邦裁判所は、民主党の予備選挙においてアフリカ系アメリカ人の票を排除することが憲法に違反しているとの判決を下した。この判決や公民権法によって参政権を取り戻した黒人有権者の85%から90%は民主党の候補者を支持し、このことが人種隔離を支持する白人層を更に共和党へ向かわせた。1969年、政治評論家のケヴィン・フィリップスは著書『強まる共和党の多数支配』(The Emerging Republican Majority)において、他の要因とともに、南部の白人からの支持と南部での勢力拡大により、大統領選挙人を共和党がしっかりと固めつつあると指摘した。 1977年時点での政党ごとの勢力政党共和党民主党無所属支持政党(ギャラップ調査)22% 47% 31% 連邦議会議員数181 354 下院 143 292 上院 38 62 下院選の全国的な得票率42% 56% 2% 東部 41% 57% 2% 南部 37% 62% 2% 中西部 47% 52% 1% 西部 43% 55% 2% 州知事12 37 1 州議員2370 5128 55 31% 68% 1% 多数を占める州議会数18 80 1 東部 5 13 0 南部 0 32 0 中西部 5 17 1 西部 8 18 0 議会と知事の両方を掌握している州の数1 29 0 とはいえ、南部が一夜にして共和党の地盤となったわけではなく、その変化は数十年の時をかけて、連邦、州、地域と徐々に進行していった。はじめに、大統領選挙において、南部の州で共和党が勝利するようになった。民主党は対抗戦略の一つとして、南部の州の獲得が幾らかは見込める南部出身者を候補に擁立して成功したこともあったが(1976年のジミー・カーターや1992年と1996年のビル・クリントン)、2000年のアル・ゴアのケースではこの戦略もうまくいかなかった。次いで、連邦議員選挙において、南部の州から共和党の議員が選出されるようになり、最後に知事職や州議会も共和党が優位となっていった。民主党が最後まで守っていたのはジョージア州であったが、遂に2002年、共和党のソニー・パーデューが知事に当選した。共和党は選挙区の区割り再編を推進し、アフリカ系アメリカ人やヒスパニックの票については(公民権法で定められた通り)権利を確保しつつも、民主党支持の白人層を分断し、ほとんどの区で共和党が勝てるような線引きを実施した。2006年、連邦最高裁判所は、2004年のテキサス州における連邦議会議員選挙に際し、トム・ディレイの主導した区割り再編は、ほぼ全て共和党に有利になるよう図ったゲリマンダー(不当改変)であると認めた。 1980年代以降、共和党は、従来の支持層である白人中産階級に加えて、それまではほとんど政治に関心のなかった福音派キリスト教徒(およびルイジアナ州南部などでは保守的なローマ・カトリック教徒)からも多くの支持を集めるようになった。人工妊娠中絶等の社会問題に対する民主党首脳部のリベラルな姿勢に反発し、多くの民主党員が、これらの問題に対して保守的な見解を示している共和党に移籍した。反対に、北東部のリベラル派の共和党員は民主党に移り始めた。 今日、南部は再び州規模の選挙では基本的に不動であり、大統領選挙でもほとんどの場合不動であるが、その投票先は共和党となっている。2004年アメリカ合衆国大統領選挙における出口調査では、南部において有権者の71%を占める白人の間で、ジョージ・W・ブッシュがジョン・ケリーを70%対30%でリードしていた。一方、有権者の18%を占める黒人の間では、90%対9%でケリーがブッシュをリードしていた。南部の有権者の3分の1は自らを白人の福音派とみなしており、彼らの80%はブッシュに投票した。2008年の大統領選挙では、南部の州のうち、フロリダ州、ノースカロライナ州とバージニア州をバラク・オバマが獲得したが、いずれも2010年の中間選挙では共和党が雪辱を果たしている。 2013年、ニューヨーク・タイムズ紙の記者ジャッキー・カルメスは、共和党の支持基盤が、大企業の本社がある北東部から南部や西部の小さな都市へと、劇的に移動しているさまを次のように伝えている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}半世紀の間に、党の基盤は産業の集中する北東部や都心から、南部と西部の街や田園地帯に植え替えられて根付いた。その結果、共和党からは、大衆迎合的で、徴税や政府に反対し、大企業からの要請に応えることにはあまり意欲的ではない、あるいは疑念を抱いてすらいるような保守派が選出されることが多くなった。多くの共和党員の考えでは、大企業というものはしばしば大きな政府と共犯関係にあり、法人税の優遇措置や助成金(彼らが「企業福祉」とみなすところのもの)を守るために、増税や支出強化、時には規制をすら求めるものなのである。
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