南部の近代化に対する恐怖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 09:00 UTC 版)
「南北戦争の原因」の記事における「南部の近代化に対する恐怖」の解説
アラン・ネビンスは、南北戦争が「抑えられない」紛争であったと指摘した。ネビンスは道徳的、文化的、社会的、理論的および経済的問題を強調する、競合する証言を総合的に扱った。そうすることでネビンスは歴史に関する議論を社会と文化の要素に置き直した。南部と北部は急速に異なる民衆になっていったと指摘したが、これは歴史家のアベリー・クラバンも指摘するところだった。この文化的違いの根源には、奴隷制の問題があるが、地域の基本的な仮定、趣旨および文化的目的は他の方法でも分化しつつあった。より具体的に言えば、北部は南部を恐れさせるくらい急速に近代化していた。歴史家のジェイムズ・マクファーソンは次のように説明している。 1861年に脱退指向者達が、自分達は伝統的な権利と価値観を守ろうと行動していると抗議した時、彼らは正しかった。彼らは北部の脅威が自分達に掛かっていることに対して憲法に保障される自由を守ろうと戦った。南部の共和制の考え方は4分の3世紀を経ても変わらなかった。北部は変わった。... 共和党の台頭はその競争力ある理論である平等主義的自由労働資本主義と共に、南部の者にとっては、北部の多数がこの脅威ある革命的な未来に向かうことが避けられないという兆候であった。 ハリー・L・ワトソンは戦前の南部社会、経済および政治の歴史を研究し纏めた。ワトソンの見方では、自己満足のヨーマン(自作農民)が、市場経済の推進者に政治的な影響力が加わることを容認したことで、「自分達の変化と協業した」。その結果としての「疑いと憤懣」が、南部の権利と自由が黒人共和主義によって脅威を与えられているという議論に肥沃な土壌を与えた。 J・ミルズ・ソーントン3世はアラバマ州の平均的白人の見解を説明した。ソーントンは、アラバマが1860年のはるか以前に厳しい危機に見舞われていたと強調している。共和制の価値観に表される自由、平等および自治という原則に深く囚われていたものが、特に1850年代に容赦ない関連市場の拡大と商業的農業によって脅威に曝されているように見えた。アラバマの人々はかくして、リンカーンが選ばれることが最悪の事態と判断し信じる用意が出来ていた。
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