南部の荒廃とは? わかりやすく解説

南部の荒廃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 09:28 UTC 版)

カーロイ1世 (ハンガリー王)」の記事における「南部の荒廃」の解説

アールパード家の王たちは次第南部制圧することに成功し小ワラキア現在のルーマニア南部)と現在のブルガリアセルビアボスニア北部植民地として手中に収めていた。カーロイはこの地の民衆を改宗させ、領土再編したカーロイ1世領土拡大尽力したが、古い植民地半独立態となってしまい、ハンガリー属国としての統治反発するようになった。これらの地域は主に正教だったが、カトリックへの改宗強要したことにより反発引き起こしたセルビア正教会派、ブルガリア権力者ワラキア人々はこういった反発加わった1320年以前まで西部ワラキアオルテニア)は、ハンガリーにより植民地一部とされていた。ワラキア支配者バサラブ1世反旗をひるがえすと、カーロイ1世は軍を率いてワラキア向かい軍備貧弱なボサラブ軍を破った。しかし1330年11月9日ハンガリー軍帰還途中山岳地帯道に迷ってしまった。やむなくワラキア軍とハンガリー軍は平和協定を結び、バサラブ道案内をした。しかしそれはポサダハンガリー軍待ち伏せ攻撃するための罠だった。ポサダの戦いカーロイ1世は、騎士1人と服を交換して辛うじて逃げ延びることができたが、ワラキアの独立認め結果となったカーロイの気づかぬ間に、オスマン朝オスマン1世オルハンの下で小アジア獲得、さらにヨーロッパ南東部侵略して領土拡大画策した。当時ヨーロッパ南東部は、防衛連合を組むより体制維持のために躍起になっており、オスマン朝台頭を許すことになったカーロイ1世1342年7月16日死去し遺体アールパード家墓地セーケシュフェヘールヴァール祭壇葬られた。

※この「南部の荒廃」の解説は、「カーロイ1世 (ハンガリー王)」の解説の一部です。
「南部の荒廃」を含む「カーロイ1世 (ハンガリー王)」の記事については、「カーロイ1世 (ハンガリー王)」の概要を参照ください。

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