南北戦争と鉄道
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「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事における「南北戦争と鉄道」の解説
19世紀半ばのアメリカでは、工業が発達して保護貿易を望んでいた北部と、プランテーション農業が産業の中心で輸出のために自由貿易を望み、大農場での労働力確保のために奴隷制の維持を主張する南部が対立するようになっていった。北部の主張に基づく政策を唱えたリンカーンが1861年に大統領に当選するに至り、南部諸州はアメリカ合衆国から脱退してアメリカ連合国の結成を宣言し、南北戦争が開始された。 南北戦争では、実用化されて間もない鉄道と電信の技術が大きな役割を果たした。それまで、軍隊を集結させるにはまず伝令を送って命令を伝え、それから徒歩や騎乗で兵士が移動してきて、さらに休息を取ってからようやく軍事行動が可能となっており、移動距離にもよるがかなり長い時間がかかっていた。しかし電信は一瞬で命令を伝達し、さらに鉄道は大きな兵力を極めて短時間で移動させて、しかも疲れないので休息なしに即時の軍事行動を可能とした。イギリスやプロイセン王国などは観戦者を送り込み、南北戦争の様相がその後20世紀半ばまでの軍事行動の基本となった。このため南北戦争は"The First Railroad War"とも呼ばれる。 しかし南北の鉄道には大きな差異があった。これは南部では農業中心の経済であったため、農村と輸出港を結ぶだけの交通路があれば十分で、それも雪や凍結に悩まされることが少ない南部では水路の船や馬車で十分なことが多く、北部ほど鉄道への要求が強くなかったことが理由として挙げられる。開戦時点で北部には約21,000マイル(約33,600 km)、南部には約7,000マイル(約11,200 km)の鉄道があり、3倍に達する延長距離の差があるだけではなく、車両数にも大きな開きがあった。フィラデルフィアとピッツバーグを結ぶ北部の鉄道で使用されていた車両の数は、南部でもっとも鉄道が発達したバージニア州全体よりも多かった。鉄道網の構造でも、北部は乗換や積み替えなしに長距離を移動できるように統合されていたのに対して、南部は軌間がばらばらで何度も乗換が必要で、乗換駅は1マイル以上も離れたところに存在していることがあった。北部の鉄道では燃料の石炭への転換が進んでいたのに対して、南部ではまだ木材が燃料の主流であった。南部の鉄道は北部の発達した工業に全面的に依存しており、ほとんどすべての部品を北部からの供給に頼っていた。南部にはわずかに1つしか機関車工場がなく、数少ない修理工場も一部を除いて開戦後は武器や弾薬の生産に転用せざるを得ず、十分な予備部品の備蓄もなかった南部は鉄道の維持に苦しむことになった。線路も貧弱で、霜の害のあまりない南部ではバラストを敷設した軌道が少なくほとんどは地面に直接レールが敷かれており、レールも幹線でようやく鉄のレールが使用されていた程度で支線は多くがまだストラップアイアンつきの木製レールであった。レールの製造もほとんどできなかったために、戦争で破壊された鉄道を復旧するには重要性の低い路線を撤去してレールを持ってくるしかなかった。鉄道の途切れた場所をつなぐ法案は南部連合国の議会で承認を受けたものの、レールや労働力が不足し鉄道会社間の利害の対立もあってほとんど進まなかった。開戦時点でも南部の列車は25マイル毎時 (40 km/h) を超えることはまずなかったが、戦争終結時点では10マイル毎時 (16 km/h) で走るのがやっとになっていた。戦闘では互いに相手方の鉄道の破壊が行われたが、強大な工業力に支えられた北軍は迅速に鉄道を復旧することができた。 鉄道の統制においても南北には大きな差異があった。リンカーン大統領は新しい法律を制定して合衆国軍用鉄道(英語版)を1862年に設立し、陸軍長官エドウィン・スタントンは合衆国軍用鉄道の最高責任者にダニエル・マッカラム(英語版)を任命した。また、陸軍省に軍用鉄道の建設と運用を担当する局が設置され、その局長にかつてペンシルバニア鉄道の主任技術者を務めたハーマン・ハウプト(英語版)が任命された。ハウプトが率いる部隊は破壊された鉄道を素早く復旧して前線にいる部隊への兵站を支えた。軍とハウプトの間で鉄道の指揮権や権限を巡って争いが起きることもあったが、次第に鉄道の運行に関しては軍の指揮官よりも鉄道の管理者の命令が優先されるべきとの慣行が確立されていった。北部の鉄道は戦争中であっても国有化されたわけではなく、それぞれが利益のために運営されていたのであるが、合衆国軍用鉄道の監督下に互いによく協力して軍事輸送を支えていた。一方南部では、もともとアメリカ連合国自体が中央政府からの干渉を少なくし各州の自治を尊重するという主張に基づいて作られたものであったため、新たに各鉄道の運営を監督・統合する組織を作ろうとする提案は手ひどい反対を受けた。必要に迫られて、主要な鉄道を国有化し鉄道の運営・建設・修復計画を統合するという法案にジェファーソン・デイヴィス大統領が署名したのは、アメリカ連合国が崩壊する寸前の1865年3月9日のことであった。 南北両軍とも鉄道と電信の活用が軍事行動において重要な位置を占めた。このため互いに相手の鉄道と電信を妨害しようとする活動も活発に行われた。南北戦争中最大の戦いと言われる1863年のゲティスバーグの戦いも、南軍のロバート・E・リー将軍が中西部の州からの食料供給を遮断することを狙って、鉄道の拠点となるこの地に侵攻したことから生起したものであった。しかし南部の鉄道網の不備は南軍の行動を大きく制約し、鉄道の輸送力が不足しているためにバージニア州の前線にいる兵士は飢えているのに、すぐそばのノースカロライナ州では積み上げられた食料が腐っていく状況で、食料の状況改善のために一部の部隊を分散させなければならないほどであった。 北軍のジェームズ・アンドリュース(英語版)はスパイとして南部の支配地域に潜入し、その指揮下の部隊とともに南部側の蒸気機関車「ゼネラル号」を奪って逃走し、その行程で線路に対する破壊行為を企てた。車掌のウィリアム・ファラー(英語版)は逆行運転の「テキサス号」を使ってゼネラル号を追いかけ、追跡を妨害するためにアンドリュースが貨車を線路上に放置したりレールを撤去したりしているところを乗り越えて、北部支配地域に逃げ込む前に燃料切れで立ち往生したところでアンドリュースの一団を捕まえることに成功した。アンドリュースにとって不運だったのは、直前に雨が降っていて木造の橋が濡れており、思うように火がつかず破壊に失敗したことであった。アンドリュースは後にスパイとして絞首刑となった。このエピソードは「機関車大競走(英語版)」として知られる。 西部戦線を指揮する南軍のブラクストン・ブラッグ将軍は、北軍のウィリアム・ローズクランズ将軍の軍隊に押されてテネシー州チャタヌーガからの撤退を強いられた。ブラッグに援軍を送るために、南軍は843マイル (1,348.8 km) 離れたバージニア州ハノーバー・コートハウス(英語版)から12,000人の兵士を鉄道で7日と10時間かけて輸送した。これにより形勢は逆転してローズクランズは撤退したが、一方でローズクランズも電信で援軍を要請した。この電信を受けて早速ゲティスバーグに駐屯していた部隊が援軍として送られた。こちらは25,000人の兵士が1,233マイル (1,972.8 km) の距離を14日で移動し、しかもこれには砲兵も含まれていた。鉄道以前であればゆうに3か月はかかったであろう兵力の展開をわずか2週間で終えて、北軍はローズクランズを救援することに成功した。このように南北両軍とも鉄道による兵力の機動を最大限に活用した。 1863年には南部の鉄道の荒廃は深刻となり、輸送には大変な時間を要するようになり始めた。機関車不足のために貴重な物資を積んだ貨車が側線に放置されたままとなり、一般の貨物輸送に障害が生じて鉄道員が輸送の引き受けにリベートを要求するような事態も発生した。軍は鉄道を管轄下に置こうとしたが、鉄道会社は州政府に訴えてこれを撤回させるといった衝突も発生した。大軍が一か所に集中すると食料不足は深刻となり、大量の食糧輸送が計画されたが、南部の荒廃した鉄道はその大輸送に耐えることができず、一般の旅客輸送の削減までが深刻に検討される事態となった。 1864年になると、北軍の西部戦線指揮官であったウィリアム・シャーマン将軍は深南部への侵攻を開始し、南部経済の枢要地であるジョージア州アトランタを攻略してさらにサバンナまで海への進軍を実行した。この過程でシャーマンは肥沃なジョージア州を徹底的に破壊しつくしたが、本当に軍事的な偉業であったのはシャーマンの指揮する10万の兵力と3万の馬を支える兵站であった。南軍は撤退時に鉄道を徹底的に破壊して去っていたが、合衆国軍用鉄道は8,000人の人員を投入して迅速に鉄道を復旧していき、シャーマンの部隊への補給を継続した。この進軍により南軍の前線部隊への補給物資の供給線が絶たれ、アメリカ連合国の壊滅は時間の問題となった。 連合国の首都であったバージニア州リッチモンドへの入口となるピーターズバーグをめぐっては、リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦が展開され、長期間にわたる塹壕戦となった。これは第一次世界大戦で広く用いられた塹壕戦のさきがけとなり、前線のすぐ手前まで鉄道による輸送が行われた。また砲を直接貨車に載せて前線へ投入することも行われた。有名なものが13インチ列車臼砲通称「ディクテーター」である。南北戦争を事実上終わらせることになったアポマトックス・コートハウスの戦いでも鉄道が重要な要素であった。追い詰められ、補給物資を至急必要としていたリー将軍の部隊は、補給品を運んできた列車が北軍の手に落ちたことで、降伏を決断することになった。 この戦争では、しばしば「鉄の馬」と称される機関車が、従来の戦争に不可欠であった馬匹にかわってその地位を占めたことが明確になった。それまでなら何週間も何か月もかかっていた機動が、鉄道ではわずか数時間で完了し、迅速に前線に兵力を送り込むことができた。鉄道は24時間365日いつでも利用できる交通機関であり、船のように天候や冬期の凍結に左右されなかった。馬車の輸送力では兵站は不完全で、兵士は占領地で広い範囲に散開して食料の徴発を行わなければならず、これは時間を浪費し占領地の荒廃をもたらし、しかも軍紀を乱すことにもなった。鉄道では常に食料と弾薬を十分に送り届けることができるようになり、こうした恐れは解消された。重い砲も配備することができるようになり、これは戦死者の増加をもたらすことにもつながった。 イリノイ州やアイオワ州などアメリカ合衆国中西部の諸州には、南部の主張に同情的な人々が多く、開戦時点で北部諸州は中西部諸州が南部につくのではないかと恐れていた。しかしこれらの州は鉄道で密接に東部の大都市と結ばれており、経済的に緊密な関係があったために合衆国に残留した。これらの州で生産される大量の食料は東部の大都市を支えると共に、南軍との前線で対峙する北軍へも潤沢に供給された。シカゴ・アンド・ノース・ウェスタン鉄道の開業を皮切りに、多くの鉄道が接続して大都市として発展し始めていたシカゴはこの食料供給の拠点ともなり、世界最大の市場のある都市としての地位を固めていった。鉄道が北部の連帯を固めた経験は、後にカリフォルニア州までを結ぶ大陸横断鉄道の構想へとつながっていく。 南部の黒人奴隷たちは、地下鉄道と呼ばれる秘密結社を通じて自由を求めて北部へ逃亡していた。この地下鉄道は物理的に地下を走っているわけではなく、逃亡中の隠れ家を駅、案内する人を車掌、逃亡する奴隷を乗客などと鉄道用語で呼んだことから来ている。
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