南北戦争と復興
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「ホットスプリングス (アーカンソー州)」の記事における「南北戦争と復興」の解説
南北戦争はホットスプリングスに大きな打撃を与えた。南軍がピーリッジの戦いで敗れ、北軍が州都リトルロックに向けて進軍を始めると、州知事ヘンリー・M・レクターは州政府機能を一時的にホットスプリングスに移動させた。北軍がリトルロック占領を断念すると、同年7月14日に州政府機能はリトルロックに戻された。住民の多くはテキサス州やルイジアナ州に避難し、終戦までとどまった。翌1863年に北軍がリトルロックを占領した頃、ゴーストタウンと化したホットスプリングスはゲリラ戦の舞台となり、略奪や放火が繰り返された。南北戦争が終結する頃には、ホットスプリングスの街には建物がわずかに残るのみとなっていた。 南北戦争が終わると、ホットスプリングスの復興は急ピッチで進んだ。1870年には常住人口は1,200人まで増え、源泉の周囲には再びバスハウスやホテルが建ち並んだ。1875年には、この地域では初となる高級ホテル、アーリントン・ホテルが開業した。1887年には、陸軍長官直轄の陸軍・海軍病院がホットスプリングスに置かれた。20世紀に入る頃には、街には東洋風の敷物、真鍮細工、宝飾品、衣服などを売る店舗も建ち並ぶようになった。 交通の整備も進んだ。1875年には、カイロ・アンド・フルトン鉄道の駅があったマルバーンとホットスプリングスを結ぶホットスプリングス鉄道が開通し、ホットスプリングスへの訪問者はさらに増えた。1893年には、バスハウスの建ち並ぶセントラル・アベニュー上を走っていたストリートカーが馬車から路面電車に代えられた。1900年には、リトルロックとホットスプリングスを最短距離で結ぶリトルロック・ホットスプリングス・アンド・ウェスタン鉄道も開通した。
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南北戦争と復興(1861年~1900年)
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「パインブラフ (アーカンソー州)」の記事における「南北戦争と復興(1861年~1900年)」の解説
パインブラフは南北戦争が勃発するまで、綿花の生産で作り上げられた富によって繁栄した。綿花は数百~数千の黒人奴隷を労働力として、大規模な農園で栽培された。1860年の時点で、市はアーカンソー州内で最も奴隷人口の多い都市の一つであり、ジェファーソン郡は綿花の生産では州内で第2位であった。北軍がリトルロックを占領した時、パインブラフの住民のグループはフレデリック・スティール少将に、北軍を町に派遣して占領させ、南軍のゲリラ兵から守るように頼んだ。パウェル・クレイントン大佐率いる北軍の部隊が1863年9月17日に到着し、終戦まで滞在した。 1863年10月25日、南軍のジョン・マーマデューク大佐はパインブラフの戦いで北軍を追い出そうとしたが、兵士と自由民(奴隷解放宣言により自由になった元奴隷)の混成部隊に撃退された。戦争の最終年(1865年)、第1カンザス志願歩兵連隊(主にアーカンソー、ミズーリからの逃亡奴隷で構成された)は、南北戦争においてアフリカ系アメリカ人の連隊で初めて戦闘に参加した。連隊はパインブラフの防御のために派遣され、最終的には1865年10月1日にパインブラフで除隊された。 北軍により、パインブラフには多くの難民や1863年に出された奴隷解放宣言で解放奴隷となった黒人が呼び込まれた。北軍は市にコントラバンドのキャンプを建設し、逃亡奴隷や難民を収容した 。戦後、解放奴隷たちはアメリカ宣教師協会とともに黒人教育のための学校創設に協力した。彼らは南部の方により読み書きの勉強が禁止されていた。大人も子供も熱心に勉強を始めた。1872年9月、ジョゼフ・C・コービン教授は黒人大学として、アーカンソー産業大学の分校を創設した。アーカンソー州で初の黒人向けの公的教育機関として創設されたこの学校は、現在はアーカンソー大学パインブラフ校となっている。 パインブラフや周辺地域は、敗戦の余波や奴隷制・搾取のトラウマに苦しみ続けた。復興は最初の頃は緩やかであった。鉄道の建設は市場へのアクセスを改善し、また綿花のプランテーションが再開したことにより生産が増加し、経済が回復し始めた。鉄道が初めてパインブラフまで開通したのは1873年12月であった。同年、市で最初の公共事業会社であるパインブラフ・ガス社が設立され、石炭からガスを生産し、供給した。州の経済は綿花栽培や農業に深く依存しており、19世紀には景気の落ち込みに苦しめられた。 1870年代以降は個人財産が増加し、地域の指導者はメインストリートの西側にビクトリア様式の家を建設した。一方で黒人にとっては、進歩と課題が混ざった厳しいレコンストラクション時代であった。黒人の大半は共和党に加入し、州議会下院に選出された黒人もいた。銀行、バー、理容店など、黒人による事業も展開された。しかし1866年、難民キャンプで口論が起き、24人の黒人が木から吊るされた状態で発見されたという、アメリカ史上でも最悪の規模の私刑が行われた。 レコンストラクション時代に黒人と白人との間の社会的緊張が高まり、黒人男性へのリンチ事件が多く発生した。1889年にはアーミスタッド・ジョンソン、1892年にはジェファーソン郡裁判所正面でジョン・ケリーとギルバート・ハリスが、数百~数千の白人の集団から激しく、厳しい処刑を受けた。ケリーは無実だと弁解したにもかかわらず、裁判もされなかった。怒った群衆は、断固として刑務所に移送しようとした警官から彼を引き戻そうとした。観衆は彼が吊るされ、ハチの巣にされるのを目撃した。同年、州は人頭税を改正し、多くの黒人と貧しい白人から投票権を剥奪した。1891年の選挙法で、すでに投票権が厳しくなり、選挙人名簿に登録された人数も減っていた。民主党の一党制になってその力は強固なものとなり、19世紀末には多くの黒人の間で厳しい雰囲気が広がっていた。民主党は人種差別政策やジム・クロウ法を押し付けた。 ヘンリー・マクニール・ターナー司教は「バック・トゥ・アフリカ」運動を起こし、多くの黒人住民がチケットを購入し、移住の情報を探した。アーカンソーでは650人が西アフリカのリベリアへと出発し、また他の州からもさらに多くの黒人が移住した。アーカンソーの移民の大半は、黒人が多数を占めるジェファーソン郡、セントフランシス郡、プラスキ郡、ポープ郡、コンウェイ郡からやって来た。 歴史家のジェームズ・レスリーによれば、パインブラフは1880年代に「黄金時代」に突入した。綿花の生産と河川交通を用いた商業は市に産業や公的機関、住民を引き寄せ、1890年までには州内で3番目の規模の都市に成長した。電話システムは1883年3月31日に供用開始された。事業で富を得た自由民のワイリー・ジョーンズは、1886年10月にラバに引かせる路面電車を建設した。電灯や電力、給水施設は1887年に完成した。1912年にはよりしっかりとした電灯や給水施設が整備された。1880年代と1890年代を通じて、地域の木材産業の成長によっても景気の拡大が刺激させられた。
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