南北戦争と人種の壁とは? わかりやすく解説

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南北戦争と人種の壁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 20:32 UTC 版)

ローリー (ノースカロライナ州)」の記事における「南北戦争と人種の壁」の解説

南北戦争開戦すると、州知事ゼブロン・バード・バンスは北軍の攻撃からの防護目的として、市の周囲に胸の高さまでの防壁張り巡らすことを命じた北軍ウィリアム・シャーマンカロライナ方面作戦展開している最中には、ローリージャドソン・キルパトリック指揮にあった北軍兵士によって占領されていた。南軍兵士西へ逃走すると、北軍がそれを追い近郊のモリスビルで戦闘となった南北戦争中に市が大きく被害を受けることはなかったが、戦後経済問題レコンストラクション影響あいまってその後数十年にわたってほとんど成長しなかった。 1865年南北戦争終結すると、アフリカ系市民教育機会与えられ男子には参政権与えられた。解放黒人局の助力により、多く解放奴隷田舎からローリーへと移入してきた。1865年には、南部初の黒人大学ショー大学開学した。ショー大学開学当初男子大学であったが、やがて共学移行し全米初めてとなるアフリカ系女子学生教育を行う校舎としてエステー・ホールが建てられた。また、ショー大学にはアフリカ系学生のための4年制医学校としては全米初となる、レナード・メディカル・センターも設置された。1867年には聖公会解放奴隷受け入れ高等教育機関としてセント・オーガスティンズ大学開学した。さらに1869年には、州議会全米初の、アフリカ系盲人・聾人学校ローリー設置することを可決した。 しかし、人種の壁が完全に取り払われたわけではなかった。1900年州議会新し州憲法案を可決させた。この州憲法により、ほとんどの黒人多く貧困層白人から投票権剥奪された。1908年には黒人票は0になったアフリカ系市民多くが再び投票権得たり裁判において陪審員となったり、地方公務員として従事したりすることができるようになったのはそれからだいぶ後、1965年以降のことであったクラレンス・E・ライトナー1967年市議会議員当選その後1973年には市長就任しローリー市史上初のアフリカ系市長となった

※この「南北戦争と人種の壁」の解説は、「ローリー (ノースカロライナ州)」の解説の一部です。
「南北戦争と人種の壁」を含む「ローリー (ノースカロライナ州)」の記事については、「ローリー (ノースカロライナ州)」の概要を参照ください。

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