南北戦争と知事としての2期目
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「ジョン・L・ヘルム」の記事における「南北戦争と知事としての2期目」の解説
1861年1月8日、ヘルムはルイビルで行われた集会を主宰した。この集会は南北戦争におけるケンタッキー州の中立を提案した。ヘルムはアメリカ合衆国からの脱退に強く反対する者であったが、エイブラハム・リンカーンの大統領選出を非難し、南部州を従わせるために軍事力を使うことも非難していた。ヘルムの息子ベンジャミンが南軍に加わることを止めなかったので、連邦政府当局はヘルムを南部の同調者に分類した。 元州知事のチャールズ・S・モアヘッドを連邦当局が逮捕したことを知ったヘルムは、自身も逮捕されることを怖れ、ボーリンググリーンに逃亡した。その後ワーナー・アンダーウッドの仲介により、憲法への忠誠を誓うという条件で自宅に戻ることができた。それでも北軍の兵士が繰り返し家に入ってきて、奴隷達に主人を捨てるよう奨励し、収穫物を消費したり、損耗したりした。州の裁判所が戦争のために閉鎖されたので、法律実務で生活の糧を稼ぐこともできなかった。そこそこあった蓄えが瞬く間に消費され、家族を養うために借金に頼るようになった。 1862年9月、ヘルムやハーディン郡の市民数人がノックス大佐によって逮捕された。エリザベスタウンで数日間拘束された後、ルイビルに送られることになった。偶々州知事のジェイムズ・F・ロビンソンがその集団の中にいるヘルムを認め、ジェレマイア・ボイル将軍に釈放するよう交渉してくれた。ヘルムが家に戻ってから間もなく、チカマウガの戦いで息子のベンジャミンが戦死したことを知った。 戦後、ヘルムは民主党に入り、1865年には州議会上院議員に復帰した。その任にある時に連邦関係委員会の委員長を務め、元南軍支持者に対する懲罰的で制限のある法と戦った。1866年1月22日、上院で戦争中のアメリカ合衆国議会の行動に対して抗議の演説を行った。州に残されていた権限を連邦政府に認め、南部州の多くの者が議会に出ていないときに成立されたという根拠でレコンストラクション憲法修正条項を非難した。解放奴隷局の創設と運営についても非難した。1867年1月29日、ヘルムは議会に、アンドリュー・ジョンソン大統領と連邦を回復するためのその努力を支援するために、ルイビルで集会を開くことを提案した。 1867年2月22日、民主党ケンタッキー州会議がフランクフォートで開催され、ヘルムを州知事候補に、ジョン・W・スティーブンソンを副知事候補に選出した。ヘルムはこの指名を受け入れるために、上院議員の職を辞した。ヘルムの健康状態は衰えていたが、州全体を遊説して歩くことに決めた。戦争の苦痛を終わらせ、南軍に加担した者に対する追放処置を終わらせる呼びかけを続けた。選挙では共和党のシドニー・バーンズや第3政党の候補者ウィリアム・B・キンキード判事を破って当選した。 骨の折れる選挙運動を行ったことで、既に弱っていたヘルムの肉体を極限まで追いつめることになった。ヘルムは弱っていて就任のためにフランクフォートまで行くことができず、1867年9月3日に自宅で就任宣誓が行われた。ヘルムの州務長官がハーディン郡庁舎で知事の就任演説を読み上げた。その中で、元南軍支持者の政治的不能状態を回復させる意図を繰り返し強調した。また連邦議会は州の事情にちょっかいを出し過ぎているとも非難した。ヘルムは黒人に対する保護を約束したが、黒人の選挙権付与という概念には反対した。 ヘルムは知事就任から5日後の1867年9月8日に死んだ。ヘルムプレースの加須窪地に埋葬された。ヘルムプレースは1976年11月9日にアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定された。
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