南北戦争におけるウィットワース銃とは? わかりやすく解説

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南北戦争におけるウィットワース銃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 05:31 UTC 版)

ウィットワース銃」の記事における「南北戦争におけるウィットワース銃」の解説

1861年4月12日に、南軍サムター要塞攻撃して南北戦争が始まると、ウィットワース銃アメリカ連合国熟練兵士らに支給され使用された。 南北戦争アメリカ連合国輸入したウィットワース銃は約250丁とされており、戦争中使用された数が少なかったのは、その高額な費用反映している。ライフル一丁には100ドル付属品工具、そして1,000個の弾薬を含む各ライフルには1,000ドル費用がかかったアメリカ連合国によって輸入されウィットワース銃中にはシンプルなフロントサイトから、グローブ型やアパーチャ型照準器備えていたものまで様々あったが、ほとんどは通常のラダー照準器とデヴィッドソン望遠鏡照準器両方備えていた。 デヴィッドソン照準器は、イギリス兵士でありスポーツマンでもあるデヴィッド・デヴィッドソン(英:David Davidson)によって発明され照準器で、望遠鏡頑丈な銅管内蔵されてある。倍率は4倍で、レティクル単純な十字線であった照準器は銃の左側にある取り外し可能で外部調整可能なマウント取り付けられた。照準の高さは、距離に応じて、リアマウントのスイベル調整することで必要な角度修正できた。 しかし、この照準器完璧というわけでなく、接眼レンズ対物レンズどちらも同じ直径であったため、集光力は不十分であり、南北戦争火器研究するウィリアム・B・エドワーズ(英:William B. Edwards)は、ウィットワース銃などの南北戦争ライフル付属しているスコープ覗き見ることは、「暗いトンネル覗き込む様なもの」と述べている。 南北戦争中では、この照準器取り付けたウィットワース銃使用した兵士は、狙い定めている間に十分な瞳距離が取れず照準器の端が寄りかかっていたため、「蹴り(原文:kick)」がかなり強く、目を傷つける事があった。その為、デヴィッドソン照準器取り付けたウィットワース銃使用した兵士は、戦いの後アザによって目を黒くする事があったと当時兵士述べている。しかし、この照準器は、立射などの伝統的な射撃姿勢とっても十分な瞳距離を取ることが出来るため、上記の様な出来事がデヴィッドソン照準器欠点になるとは言い難い南北戦争では、六角形弾と円筒形弾が使用されウーリッジにある王立研究所(英:Royal Arsenal)で製造されウーリッジ弾薬包も使用されたが、それに加えウィットワース特許弾薬包(英:Whitworth Patent Cartridge)も使用された。 ウィットワース特許弾薬包は、ホイットワース開発した弾薬包で、中には弾丸火薬、綿が内蔵されており、加熱したワックス樹脂物質融合した紙で包まれている。薬包上部僅かに凹んでおり、これによって薬包内からの弾丸抜け落ち防いだ弾薬下部にはテープ敷かれており、これによって薬包内に火薬弾丸保持させた。この弾薬包には六角形弾や円筒形弾が内蔵され南北戦争使用された。 装填方法は、 弾薬包を銃口挿入し、そこで保持する弾薬下部テープを引き、弾薬下部落とし穴設ける。 ラムロッドを薬包内に差し込み内容物銃身底部まで押し込む。 空になった薬包捨てる。 というものだったウィットワース銃早くも1862年12月封鎖突破船リスト記載されており、同じく1862年頃には13丁のウィットワース銃リー将軍によって受け取られている。しかし、フィールドでの使用に関する最初証言1863年であり、南軍兵器長であるジョシア・ゴーガス大佐(英:Josiah Gorgas)が5月29日テネシー陸軍20丁の望遠鏡照準器付きウィットワース銃発送した1863年5月頃には20,000個の弾薬テネシー陸軍導入された。北バージニア軍では、3672丁の間の数のウィットワース銃使用されていた可能性が最も高く1864年6月24日付け報告書には、テネシー陸軍に、32丁のウィットワース銃と3,400発の弾薬があることが示されていた。このようにしてウィットワース銃南北戦争戦場出現するうになるウィットワース銃北部南部両方勢力において最高の武器であり、その精度すさまじいものだったウィットワース銃装備した兵士初期の記録として知られるのは北バージニア軍所属していたジョン・ウェスト(英:John West)の記録であり、彼は戦後自身戦闘経験著書Camp-fire Sketches and Battle-field Echoes of 61-5』にて以下のように記している。 それから我々は軍役入り、私は男の魂を試す場面経験してきた。私はすぐに危険に無関心になり、苦難窮乏苛まれた。私は10フィート(3.05メートル)から1マイル(1.6キロ)までの距離から兵士射殺した何人殺したのかは分からないが、多く殺した。 我々は時々、別々に、また集合的に雇われた。時には偵察し、そして狙撃をした。私たちの最も効果的な仕事は、将校狙い撃ち砲兵沈黙させ、敵のシャープシューターから我々の戦線保護することであった。私はバンクス将軍シールズ将軍射殺した確信している。これらの将軍殺された日、我々の戦線には私しシャープシューターはいなかった。 砲兵狙撃よりも優れたものなら何でも耐えることができ、砲台に銃を向けるのと同じくらい速くシャープシューターに砲を向けることができた。そのため、我々は彼らの砲兵簡単に狙い撃つことができた。私と仲間は、2時間足らずで6門の砲の砲兵を完全に沈黙させた。その後砲台襲撃され捕獲された。私はリー将軍が、陸軍のどの連隊よりも13名の狙撃手欲しと言っているのを聞いた。我々は戦争において、しばしば様々な工夫用いた時には木に登ったり、服のあちこち葉っぱピン留めたりして、その色が我々を示さないようにした。私達二人一緒にいてヤンキーシャープシューター私達撃とうとしているとき、私達一人はラムロッドに帽子かぶせて私たち隠して保護している物体後ろからそれを突き上げヤンキー帽子を撃つために頭を見せると、もう一人彼の頭に銃弾撃ち込んだ。私は彼らを木から撃ち落とし、彼らが繭のように落ちるのを見た穀物畑の中にいると、発砲して転倒し発砲した場所から数ヤード転がりヤンキーシャープシューターが煙に向かって発砲したウィットワース銃出現により、テネシー陸軍長距離狙撃南軍での専門となったまた、北バージニア軍でも長距離狙撃ウィットワース銃使用された。騎乗している者は目立つためにかなりの長距離からでも狙撃された。 B・Lリドリー(英:B・LRidley)は、第20テネシー連隊(英:20th Tennessee Infantry Regiment)所属ジョン・キング(英:John King)の将校狙撃を『Confederate veteran Volume 4』にて以下の様に述べている。 ダルトン近くのロッキーフェイスリッジで、第20テネシー連隊ジョン・キングは、望遠鏡照準器ウィットワース搭載し、1マイル離れた小競り合い戦線指揮する将校落馬させた。 他にも、2,250ヤード(約2057メートル)からの狙撃成功した者も存在しており、F・Sハリス(英:F・SHarris)は、テネシー中尉(英:Tennessee lieutenant)の狙撃同じくConfederate veteran Volume 4』にて以下の様に報告している。 1864年の夏にグラント鉱山ピーターズバーグ近く爆発した直後アーチャーテネシー旅団将校は、騎兵一団北軍戦線のはるか後方高所上っているのを観察した。彼は、その瞬間通りかかっていたA・P・ヒル(英:A・PHill)隊の技師長であるスレイド(英:Slade)大尉呼び、距離を計算するように頼んだスレイド大尉はそれを2,250ヤード推測した明らかに将軍ある男性の一人一団から離れて最高点立ち止まったのと同じ時に中尉旅団狙撃兵ウィットワース銃取りグローブ照準器で彼(将軍)に銃を向け、じっくりと狙い定め発砲した将軍は馬から落ちすぐさま彼の参謀彼の周り集まった南軍少将であるパトリック・クレバーンは、ウィットワース銃長距離において敵を狙撃したことを、『The War of the Rebellion A Compilation of the Official Records of the Union and Confederate Armies』にて以下のように語っている。 私には弾薬がなく、良く役に立つ見られた5丁のウィットワース銃除いて敵の継続的な射撃反撃しなかった。騎乗していた者は700から1,300ヤード範囲の距離で倒された。 パトリック・クレバーンは、イギリス軍所属していた経験があり、正確な射撃価値理解していた。1863年5月下旬にジョシア・ゴーガス大佐(英:Josiah Gorgas)がテネシー軍発送した20丁のウィットワース銃のうちの5丁を受け取った後、クレバーンは「ウィットワース狙撃兵部隊(英:Corps of Whitworth Sharpshooters)」を結成した。これは非常に成功し、この部隊戦争終結まで壮大な奉仕行った。 より多くライフル利用可能になるにつれて、他の師団同様の部隊形成した。第1テネシー連隊(メイニーズ旅団、チーサム師団)の兵士であったサミュエル・R・ワトキンス(英: Samuel R. Watkins)は、ウィットワース銃どのように配備されたかを以下のように説明した。 それら(ウィットワース銃)は軍隊ベストショット(射撃において腕優れる者の事)に与えられることになっていた。ある日ジョー・P・リー大尉とH中隊は、銃(ウィットワース銃)のために標的射撃に出かけた。我々は銃(ウィットワース銃)が欲しかった。なぜなら、それを手に入れればシャープシューターになることができ、キャンプなどの義務から解放されるからだ。すべての将軍将校らは我々が撃つのを見に出てきた。標的は約500ヤード先のの上に付けられ、我々は3発射撃できた。発射された全弾が標的命中したが、他のどの射撃よりも標的の点に近く射撃した男が一人いて、ウィットワース銃彼に授与された。 また、ウィットワース銃対物役割においても使用された。例えば、チャタヌーガ包囲中に南軍シャープシューター北軍供給しようとする馬車隊を撃退したウィットワース銃武装したシャープシューターであるヘンリーグリーン(英:Henry Green)が、速い正確な射撃で各馬車撃退していく様子が、以下の様に書かれている。 彼は先導する馬車牽引する4頭のラバ撃ち、そして他のラバをそれらが来るのと同じくらい速く撃ったウィットワース銃は、北バージニア軍テネシー陸軍との両方名声得たが、チャールストン南軍兵士たちによっても効果的に使用された。チャールストンハーバーにあるモリス島のワグナー砦に所属している狙撃兵らには18丁のウィットワース銃支給された。ワグナー砦での戦闘多く接近戦であり、ウィットワース銃の長射程打ち消されたが、近距離におけるウィットワース銃精度は凄まじく危険であり、北軍兵士達自身の体の如何なる部位であろうと敵に見せることが出来なかった。北軍少佐であるトーマス・B・ブルックス(英:Thomas・B・Brooks)は、近距離におけるウィットワース銃危険性について以下の様に述べている。 もし胸壁から体の一部分でも露出させれば望遠鏡照準器付きウィットワース銃回避不可能な集中攻撃晒されるだろう。我々の部下何人かは、ワーグナーから1,300ヤードの距離でこれらのライフルによって負傷した。 他にも、第144ニューヨーク義勇歩兵連隊ワグナー砦での戦闘参加しており、この連隊様々な所から砲撃受けていた。それに加えウィットワース銃装備したシャープシューター狙撃受けていた。その様子が以下の様に述べられている。 危険は(南軍の)砲撃だけではなかった。ワグナー砦の前の砂丘の間にある反乱軍哨戒線にはシャープシューター居たからだ。これらのシャープシューターには、望遠鏡照準器付きウィットワース銃配備されており、砂丘設置され小さな堡塁から、北軍兵士狙い撃つ機会一日中監視していた。これらの銃は1,500ヤードの距離で致命的な効果もたらす事ができた。包囲中には毎日平均して2人死亡し、8人が負傷した1863年9月ワグナー要塞陥落した後、ウィットワース銃装備した兵士たちは、サムター要塞移動し第二次世界大戦中のモンテカシーノのドイツ兵の様に、彼らは瓦礫潜り込み要塞奪還試み勢力撃退した。そして、チャールストン包囲する北軍に対して攻撃続けた。そのため、要塞1865年サウスカロライナ州からのウィリアム・T・シャーマン将軍進撃によって南軍撤退するまで破棄されることはなかった。 他にもウィットワース銃記録存在しており、南軍狙撃兵であるダニエル・ソーテル(英:Daniel Sawtelle)は、彼の旅団配備されウィットワース銃確認したことを述べていた。 何もすることがなかったため、私はベン・パウエル(英:Ben Powell)がウィットワース銃持って狙撃行っていた野原横切ったイギリスから持ち込まれ幾つかのウィットワース銃(望遠鏡照準器付き)は性能発揮していた。彼は自分行きたいところに行って敵兵士を狙い撃った。私はその銃を何回撃ったが、反動強かった。 ベン・パウエルの活躍については別の記録存在しており、サウスカロライナ狙撃手であったベリー・ベンソン(英:Berry Benson)は、友人であるパウエルのとの遭遇について以下の様に述べている。 ある日パウエル帽子に穴をあけてやって来たのを覚えている。彼は、引退するのが賢明だったが、彼自身素晴らし射撃証明した敵のシャープシューター決闘していた。 ウィットワース銃南北戦争中に挙げた功績として最も知られているのは、スポットシルバニア・コートハウスの戦いで、1864年5月9日北軍将軍であったジョン・セジウィック狙撃をした事である。この戦いでは、ウィットワース銃支給されていた北バージニア軍参加していた。歴史家のフレッド・レイ(英:Fred Rey)は、ウィットワース銃少数配備され南軍狙撃大隊が、セジウィック近く配置されていたことを言及しており、先述した人物であるベリー・ベンソンは、ウィットワース銃受け取ったシャープシューターであるベン・パウエルの事を「2日前に望遠鏡照準器付きウィットワース銃で、ジョン・セジウィック大佐射殺し、」と述べている。しかし、当のパウエル本人5月9日に「騎乗していた『ヤンキー大将軍』を仕留めた。」と述べており、この「大将軍」に当てはめることができる人物は、この戦いで騎乗し負傷した将軍ウィリアム・H・モリス(英:William H. Morris)であるが、歩いていたセジウィックではない。つまり、ウィットワース銃は、この狙撃用いられた「可能性が高い」というだけで、それを確かなものとする証拠は無いということ留意すべきである1864年5月23日起きたノースアンナの戦いでも、ウィットワース銃シャープシューターによって使用されており、ジェームズ・A・ミリング(英:James・A・ Milling)は、ウィットワース銃装備したシャープシューター長距離から下士官狙撃する様子彼の回想録Jim Milling and the War 1862-1865」にて以下の様に述べている。 ヤンキー進軍が1マイル先から視野入った堡塁中に我々と居たのはロングストリート偵察兵だった。彼はグローブ照準器ウィットワース銃装備していた。私は、騎乗しているヤンキー(私の推測では下士官)を彼が狙撃したのを見た。その距離は1マイル近くであったと我々は推測する最終盤の1865年3月25日起きたステッドマン砦の戦いでもウィットワース銃使用された。北軍による反撃によって、南軍退却始めていたが、それの実行に至るまで、ウィットワース銃用いた狙撃行なっていた事を、J・Pカーソン(英:J・PCarson)は、「Confederate Veteran」にて以下のように述べている。 隊列20列だったに違いない。我々のウィットワース銃主要な個人狙撃開始した。しかし、軍全体撃退する事は出来ず、現在、我々は撤退しなければならなかった。

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