南北戦争におけるウィットワース銃
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「ウィットワース銃」の記事における「南北戦争におけるウィットワース銃」の解説
1861年4月12日に、南軍がサムター要塞を攻撃して南北戦争が始まると、ウィットワース銃はアメリカ連合国の熟練の兵士らに支給され、使用された。 南北戦争でアメリカ連合国が輸入したウィットワース銃は約250丁とされており、戦争中に使用された数が少なかったのは、その高額な費用が反映している。ライフル一丁には100ドル、付属品、工具、そして1,000個の弾薬を含む各ライフルには1,000ドルの費用がかかった。 アメリカ連合国によって輸入されたウィットワース銃の中には、シンプルなフロントサイトから、グローブ型やアパーチャ型照準器を備えていたものまで様々あったが、ほとんどは通常のラダー式照準器とデヴィッドソン望遠鏡照準器の両方を備えていた。 デヴィッドソン照準器は、イギリスの兵士でありスポーツマンでもあるデヴィッド・デヴィッドソン(英:David Davidson)によって発明された照準器で、望遠鏡は頑丈な銅管に内蔵されてある。倍率は4倍で、レティクルは単純な十字線であった。照準器は銃の左側にある取り外し可能で外部調整が可能なマウントに取り付けられた。照準の高さは、距離に応じて、リアマウントのスイベルを調整することで必要な角度に修正できた。 しかし、この照準器は完璧というわけでなく、接眼レンズと対物レンズはどちらも同じ直径であったため、集光力は不十分であり、南北戦争の火器を研究するウィリアム・B・エドワーズ(英:William B. Edwards)は、ウィットワース銃などの南北戦争のライフルに付属しているスコープを覗き見ることは、「暗いトンネルを覗き込む様なもの」と述べている。 南北戦争中では、この照準器を取り付けたウィットワース銃を使用した兵士は、狙いを定めている間に十分な瞳距離が取れず、照準器の端が寄りかかっていたため、「蹴り(原文:kick)」がかなり強く、目を傷つける事があった。その為、デヴィッドソン照準器を取り付けたウィットワース銃を使用した兵士は、戦いの後にアザによって目を黒くする事があったと当時の兵士が述べている。しかし、この照準器は、立射などの伝統的な射撃姿勢をとっても、十分な瞳距離を取ることが出来るため、上記の様な出来事がデヴィッドソン照準器の欠点になるとは言い難い。 南北戦争では、六角形弾と円筒形弾が使用され、ウーリッジにある王立研究所(英:Royal Arsenal)で製造されたウーリッジ弾薬包も使用されたが、それに加え、ウィットワース特許弾薬包(英:Whitworth Patent Cartridge)も使用された。 ウィットワース特許弾薬包は、ホイットワースが開発した弾薬包で、中には弾丸、火薬、綿が内蔵されており、加熱したワックスと樹脂物質を融合した紙で包まれている。薬包上部は僅かに凹んでおり、これによって薬包内からの弾丸抜け落ちを防いだ。弾薬下部にはテープが敷かれており、これによって薬包内に火薬や弾丸を保持させた。この弾薬包には六角形弾や円筒形弾が内蔵され、南北戦争で使用された。 装填方法は、 弾薬包を銃口に挿入し、そこで保持する。 弾薬包下部のテープを引き、弾薬下部に落とし穴を設ける。 ラムロッドを薬包内に差し込み、内容物を銃身底部まで押し込む。 空になった薬包を捨てる。 というものだった。 ウィットワース銃は早くも1862年12月に封鎖突破船のリストに記載されており、同じく1862年頃には13丁のウィットワース銃がリー将軍によって受け取られている。しかし、フィールドでの使用に関する最初の証言は1863年であり、南軍の兵器長であるジョシア・ゴーガス大佐(英:Josiah Gorgas)が5月29日、テネシー陸軍に20丁の望遠鏡照準器付きウィットワース銃を発送した。1863年5月頃には20,000個の弾薬がテネシー陸軍に導入された。北バージニア軍では、36~72丁の間の数のウィットワース銃が使用されていた可能性が最も高く、1864年6月24日付けの報告書には、テネシー陸軍に、32丁のウィットワース銃と3,400発の弾薬があることが示されていた。このようにしてウィットワース銃は南北戦争の戦場に出現するようになる。 ウィットワース銃は北部、南部両方の勢力において最高の武器であり、その精度はすさまじいものだった。ウィットワース銃を装備した兵士の初期の記録として知られるのは北バージニア軍に所属していたジョン・ウェスト(英:John West)の記録であり、彼は戦後に自身の戦闘経験を著書『Camp-fire Sketches and Battle-field Echoes of 61-5』にて以下のように記している。 それから我々は軍役に入り、私は男の魂を試す場面を経験してきた。私はすぐに危険に無関心になり、苦難や窮乏に苛まれた。私は10フィート(3.05メートル)から1マイル(1.6キロ)までの距離から兵士を射殺した。何人殺したのかは分からないが、多くを殺した。 我々は時々、別々に、また集合的に雇われた。時には偵察し、そして狙撃をした。私たちの最も効果的な仕事は、将校を狙い撃ち、砲兵を沈黙させ、敵のシャープシューターから我々の戦線を保護することであった。私はバンクス将軍とシールズ将軍を射殺したと確信している。これらの将軍が殺された日、我々の戦線には私しかシャープシューターはいなかった。 砲兵は狙撃よりも優れたものなら何でも耐えることができ、砲台に銃を向けるのと同じくらい速くシャープシューターに砲を向けることができた。そのため、我々は彼らの砲兵を簡単に狙い撃つことができた。私と仲間は、2時間足らずで6門の砲の砲兵を完全に沈黙させた。その後、砲台は襲撃され、捕獲された。私はリー将軍が、陸軍のどの連隊よりも13名の狙撃手が欲しいと言っているのを聞いた。我々は戦争において、しばしば様々な工夫を用いた。時には木に登ったり、服のあちこちに葉っぱをピンで留めたりして、その色が我々を示さないようにした。私達二人は一緒にいて、ヤンキーのシャープシューターが私達を撃とうとしているとき、私達の一人はラムロッドに帽子をかぶせて、私たちを隠して保護している物体の後ろからそれを突き上げ、ヤンキーが帽子を撃つために頭を見せると、もう一人は彼の頭に銃弾を撃ち込んだ。私は彼らを木から撃ち落とし、彼らが繭のように落ちるのを見た。草や穀物畑の中にいると、発砲して転倒し、発砲した場所から数ヤード転がり、ヤンキーのシャープシューターが煙に向かって発砲した。 ウィットワース銃の出現により、テネシー陸軍の長距離狙撃は南軍での専門となった。また、北バージニア軍でも長距離狙撃にウィットワース銃は使用された。騎乗している者は目立つためにかなりの長距離からでも狙撃された。 B・L・リドリー(英:B・L・Ridley)は、第20テネシー連隊(英:20th Tennessee Infantry Regiment)所属のジョン・キング(英:John King)の将校の狙撃を『Confederate veteran Volume 4』にて以下の様に述べている。 ダルトン近くのロッキーフェイスリッジで、第20テネシー連隊のジョン・キングは、望遠鏡照準器をウィットワースに搭載し、1マイル離れた小競り合いの戦線を指揮する将校を落馬させた。 他にも、2,250ヤード(約2057メートル)からの狙撃に成功した者も存在しており、F・S・ハリス(英:F・S・Harris)は、テネシーの中尉(英:Tennessee lieutenant)の狙撃を同じく『Confederate veteran Volume 4』にて以下の様に報告している。 1864年の夏にグラントの鉱山がピーターズバーグの近くで爆発した直後、アーチャーのテネシー旅団の将校は、騎兵の一団が北軍の戦線のはるか後方で高所に上っているのを観察した。彼は、その瞬間に通りかかっていたA・P・ヒル(英:A・P・Hill)隊の技師長であるスレイド(英:Slade)大尉を呼び、距離を計算するように頼んだ。スレイド大尉はそれを2,250ヤードと推測した。明らかに将軍である男性の一人が一団から離れて最高点で立ち止まったのと同じ時に、中尉は旅団の狙撃兵のウィットワース銃を取り、グローブ型照準器で彼(将軍)に銃を向け、じっくりと狙いを定め、発砲した。将軍は馬から落ち、すぐさま彼の参謀が彼の周りに集まった。 南軍の少将であるパトリック・クレバーンは、ウィットワース銃で長距離において敵を狙撃したことを、『The War of the Rebellion A Compilation of the Official Records of the Union and Confederate Armies』にて以下のように語っている。 私には弾薬がなく、良く役に立つと見られた5丁のウィットワース銃を除いて敵の継続的な射撃に反撃しなかった。騎乗していた者は700から1,300ヤードの範囲の距離で倒された。 パトリック・クレバーンは、イギリス軍に所属していた経験があり、正確な射撃の価値を理解していた。1863年5月下旬にジョシア・ゴーガス大佐(英:Josiah Gorgas)がテネシー軍へ発送した20丁のウィットワース銃のうちの5丁を受け取った後、クレバーンは「ウィットワース狙撃兵部隊(英:Corps of Whitworth Sharpshooters)」を結成した。これは非常に成功し、この部隊は戦争終結まで壮大な奉仕を行った。 より多くのライフルが利用可能になるにつれて、他の師団も同様の部隊を形成した。第1テネシー連隊(メイニーズ旅団、チーサム師団)の兵士であったサミュエル・R・ワトキンス(英: Samuel R. Watkins)は、ウィットワース銃がどのように配備されたかを以下のように説明した。 それら(ウィットワース銃)は軍隊のベストショット(射撃において腕が優れる者の事)に与えられることになっていた。ある日、ジョー・P・リー大尉とH中隊は、銃(ウィットワース銃)のために標的射撃に出かけた。我々は銃(ウィットワース銃)が欲しかった。なぜなら、それを手に入れればシャープシューターになることができ、キャンプなどの義務から解放されるからだ。すべての将軍と将校らは我々が撃つのを見に出てきた。標的は約500ヤード先の丘の上に付けられ、我々は3発射撃できた。発射された全弾が標的に命中したが、他のどの射撃よりも標的の点に近く射撃した男が一人いて、ウィットワース銃は彼に授与された。 また、ウィットワース銃は対物の役割においても使用された。例えば、チャタヌーガの包囲中に、南軍のシャープシューターは北軍に供給しようとする馬車隊を撃退した。ウィットワース銃で武装したシャープシューターであるヘンリーグリーン(英:Henry Green)が、速い正確な射撃で各馬車を撃退していく様子が、以下の様に書かれている。 彼は先導する馬車を牽引する4頭のラバを撃ち、そして他のラバをそれらが来るのと同じくらい速く撃った。 ウィットワース銃は、北バージニア軍とテネシー陸軍との両方で名声を得たが、チャールストンの南軍の兵士たちによっても効果的に使用された。チャールストンハーバーにあるモリス島のワグナー砦に所属している狙撃兵らには18丁のウィットワース銃が支給された。ワグナー砦での戦闘の多くは接近戦であり、ウィットワース銃の長射程は打ち消されたが、近距離におけるウィットワース銃の精度は凄まじく危険であり、北軍の兵士達は自身の体の如何なる部位であろうと敵に見せることが出来なかった。北軍の少佐であるトーマス・B・ブルックス(英:Thomas・B・Brooks)は、近距離におけるウィットワース銃の危険性について以下の様に述べている。 もし胸壁から体の一部分でも露出させれば、望遠鏡照準器付きウィットワース銃の回避不可能な集中攻撃に晒されるだろう。我々の部下の何人かは、ワーグナーから1,300ヤードの距離でこれらのライフルによって負傷した。 他にも、第144ニューヨーク義勇歩兵連隊もワグナー砦での戦闘に参加しており、この連隊は様々な所から砲撃を受けていた。それに加え、ウィットワース銃を装備したシャープシューターの狙撃も受けていた。その様子が以下の様に述べられている。 危険は(南軍の)砲撃だけではなかった。ワグナー砦の前の砂丘の間にある反乱軍の哨戒線にはシャープシューターが居たからだ。これらのシャープシューターには、望遠鏡照準器付きのウィットワース銃が配備されており、砂丘に設置された小さな堡塁から、北軍兵士を狙い撃つ機会を一日中監視していた。これらの銃は1,500ヤードの距離で致命的な効果をもたらす事ができた。包囲中には毎日平均して約2人が死亡し、8人が負傷した。 1863年9月にワグナー要塞が陥落した後、ウィットワース銃を装備した兵士たちは、サムター要塞に移動し、第二次世界大戦中のモンテカシーノのドイツ兵の様に、彼らは瓦礫に潜り込み、要塞の奪還を試みる勢力を撃退した。そして、チャールストンを包囲する北軍に対しても攻撃を続けた。そのため、要塞は1865年にサウスカロライナ州からのウィリアム・T・シャーマン将軍の進撃によって南軍が撤退するまで破棄されることはなかった。 他にもウィットワース銃の記録は存在しており、南軍の狙撃兵であるダニエル・ソーテル(英:Daniel Sawtelle)は、彼の旅団に配備されたウィットワース銃を確認したことを述べていた。 何もすることがなかったため、私はベン・パウエル(英:Ben Powell)がウィットワース銃を持って狙撃を行っていた野原を横切った。イギリスから持ち込まれた幾つかのウィットワース銃(望遠鏡の照準器付き)は性能を発揮していた。彼は自分の行きたいところに行って、敵兵士を狙い撃った。私はその銃を何回か撃ったが、反動が強かった。 ベン・パウエルの活躍については別の記録も存在しており、サウスカロライナの狙撃手であったベリー・ベンソン(英:Berry Benson)は、友人であるパウエルのとの遭遇について以下の様に述べている。 ある日、パウエルが帽子に穴をあけてやって来たのを覚えている。彼は、引退するのが賢明だったが、彼自身が素晴らしい射撃を証明した敵のシャープシューターと決闘していた。 ウィットワース銃が南北戦争中に挙げた功績として最も知られているのは、スポットシルバニア・コートハウスの戦いで、1864年5月9日に北軍の将軍であったジョン・セジウィックの狙撃をした事である。この戦いでは、ウィットワース銃が支給されていた北バージニア軍が参加していた。歴史家のフレッド・レイ(英:Fred Rey)は、ウィットワース銃が少数配備された南軍の狙撃大隊が、セジウィックの近く配置されていたことを言及しており、先述した人物であるベリー・ベンソンは、ウィットワース銃を受け取ったシャープシューターであるベン・パウエルの事を「2日前に望遠鏡照準器付きのウィットワース銃で、ジョン・セジウィック大佐を射殺し、」と述べている。しかし、当のパウエル本人は5月9日に「騎乗していた『ヤンキーの大将軍』を仕留めた。」と述べており、この「大将軍」に当てはめることができる人物は、この戦いで騎乗し、負傷した将軍ウィリアム・H・モリス(英:William H. Morris)であるが、歩いていたセジウィックではない。つまり、ウィットワース銃は、この狙撃に用いられた「可能性が高い」というだけで、それを確かなものとする証拠は無いということに留意すべきである。 1864年5月23日に起きたノースアンナの戦いでも、ウィットワース銃はシャープシューターによって使用されており、ジェームズ・A・ミリング(英:James・A・ Milling)は、ウィットワース銃を装備したシャープシューターが長距離から下士官を狙撃する様子を彼の回想録「Jim Milling and the War 1862-1865」にて以下の様に述べている。 ヤンキーの進軍が1マイル先から視野に入った。堡塁の中に我々と居たのはロングストリートの偵察兵だった。彼はグローブ型照準器のウィットワース銃を装備していた。私は、騎乗しているヤンキー(私の推測では下士官)を彼が狙撃したのを見た。その距離は1マイル近くであったと我々は推測する。 最終盤の1865年3月25日に起きたステッドマン砦の戦いでもウィットワース銃は使用された。北軍による反撃によって、南軍は退却を始めていたが、それの実行に至るまで、ウィットワース銃を用いた狙撃を行なっていた事を、J・P・カーソン(英:J・P・Carson)は、「Confederate Veteran」にて以下のように述べている。 隊列は20列だったに違いない。我々のウィットワース銃で主要な個人の狙撃を開始した。しかし、軍全体を撃退する事は出来ず、現在、我々は撤退しなければならなかった。
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