ステッドマン砦の戦い
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ステッドマン砦の戦いステッドマンとりでのたたかい、英:Battle of Fort Stedman)は南北戦争の最終盤1865年3月25日に行われた戦いである。バージニア州ピーターズバーグ周辺に築かれた北軍の包囲線に対し、南軍ジョン・B・ゴードン少将に率いられた部隊が夜明け前の攻撃を行った。この攻撃はピーターズバーグ包囲戦を破るための南軍による最後の重大な試みだったが、失敗した。
- 1 ステッドマン砦の戦いとは
- 2 ステッドマン砦の戦いの概要
- 3 戦闘の後
ステッドマン砦の戦い
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「ホワイトオーク道路の戦い」の記事における「ステッドマン砦の戦い」の解説
「ステッドマン砦の戦い」も参照 リーは、ジョセフ・ジョンストンの軍隊がシャーマン軍を止めることができなければ、ノースカロライナ州を動いているシャーマン軍がピーターズバーグでグラントの軍隊と合流することに気付き、また勢力を弱めつつある自軍ではリッチモンドとピーターズバーグをこれ以上守れないことにも気付き、1865年3月、ジョン・ブラウン・ゴードン少将が提案したステッドマン砦を攻撃する部隊を出撃させるという作戦を承認した。その目指すところは、ピーターズバーグの東で北軍の前線を突破し、あるいは少なくともそこそこの攻撃で地歩を獲得し、北軍の前線を短くさせるというものだった。これが成功すれば、リー軍は前線を短くでき、ジョンストン軍を支援するためにそこそこの援軍が送られるか、必要ならばリッチモンドとピーターズバーグを脱出するために有利なスタートを切り、リーの全軍を衰退しているジョンストン軍と合流させることができると考えた。 1865年3月25日夜明け前に、ゴードン隊がステッドマン砦を急襲して、砦と隣接する砲台3か所を占領し、500名を捕虜にし、さらに約500名を戦死または負傷させた後、北軍はジョン・G・パーク少将の指揮する第9軍団が即座に反撃した。その部隊が砦と砲台を取り返し、南軍を最初の前線まで押しもどし、前衛哨戒線の維持を諦めさせたうえに約4,000名の損失を出させた。その中には捕虜が約1,000名が含まれていた。南軍はもはやその補充ができない状態だった。 3月25日午後に起きたジョーンズ農園の戦いで、北軍第2軍団と第6軍団がアームストロングの工場近くの南軍哨戒線を占領し、北軍前線の左端を約0.25マイル (400 m) 南軍の砦近くに延伸させた。このことで、北軍前線のこの部分を担当していた第6軍団を、南軍前線から約0.5マイル (800 m) 内のいつでも攻撃ができる位置に置いた。リーは、ステッドマン砦とジョーンズ農園で南軍が敗北した後、グラントが直ぐに南軍に残されたピーターズバーグへの供給線であるサウスサイド鉄道とボイドトン板張り道路の方向に動いて来て、恐らくはリッチモンドとピーターズバーグからの退路を遮断することになると理解した。
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