南北戦争とニューヨーク徴兵暴動
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「ニューヨーク市の歴史」の記事における「南北戦争とニューヨーク徴兵暴動」の解説
1855年、タマニー協会から初めてニューヨーク市長に当選したフェルナンド・ウッド。タマニー協会はこの時より時代を牽引する重要な組織になる。 南北戦争の最中ニューヨークは北軍の兵士、物資の重要な拠点であった。また意気盛んなニューヨークの政治家や新聞記者たちは戦争と当時の大統領エイブラハム・リンカーンに対し鋭い切り口で意見を述べた。ニューヨーク港はヨーロッパからやってくる新たな移民(特にアイルランドとドイツ)を北軍の兵士にする拠点となった。彼らは船から降りるとすぐに登録名簿に名が連ねられた。 ニューヨーク市は南部とも強い商業的繋がりを持っており、増え続ける移民と徴兵制度への不満から北軍、アメリカ連合国軍どちらにもつかない人々もいた。1863年に起こったニューヨーク徴兵暴動はその不満が最高潮に達したアメリカ史上最悪の事件のひとつである。 1860年代、すでに人種のるつぼと化していたニューヨークはさまざまな思想が入り乱れた町だった。一方、南部は保守的アメリカ人が多く住む地域で奴隷制度廃止を掲げたリンカーンの大統領就任を拒否しアメリカ合衆国脱退の兆しが現れた。第2期の市長選に再当選したフェルナンド・ウッド (1860 - 1862) はニューヨーク民主党の一員で南軍擁護派であったため、忠実な北軍支持者からは"コッパーヘッド"(南軍びいきの北部人)と呼ばれた。1861年1月、ウッドは市の協議会にニューヨークは他のアメリカ地域とは違う自由な街を目指し南部との綿の貿易も続けることを提案。ウッズ率いる民主党は大きく南部との綿の貿易による歳入に依存していた。ニューヨーカーは民主党支持が多く、その多くはタマニー協会率いるマシーンによるものだった。ウィリアム・トゥウィード率いる同協会は市内に数多くのオフィスを構え、違法的にだが州の立法府や司法にまで権限を有していた。1860年から70年、トゥウィードは市内の民主党候補者の大半を握中に収め、一方ニューヨーク州北部では共和党優勢であった。リンカーン支持者達はユニオン・リーグ(英語版)を結成。大統領の政策を徹底的に支持した。 アメリカ合衆国陸軍はニューヨーク港守備のため戦争勃発前から南軍の攻撃に備え要塞化を図ったが、結果的ニューヨークは南軍に攻められることは無かった。ラファイエットの砦、スカイラーの砦は結果的に南軍兵士の捕虜収容所となった。またマクドゥーガル病院やデ・キャンプ・ジェネラル病院は増え続ける負傷兵を収容する病院として設立された。Wig-Wagシステムと呼ばれる信号はニューヨークで発明されアルバート・J・マイヤー少佐の下ニューヨーク港でその試験が行われた。リッカー島は白人およびアフリカン・アメリカン連隊の最大の軍事演習基地となり、新人兵士は陸軍編成のための出資をした資産家ジョン・ジャコブ・アスター3世の名が付けられたキャンプ・アスターで行われた。キャンプ・アスターでトレーニングを受けた軍の中には同島を所有していた一族の末裔でジョン・ラファイエット・リッカー大佐に率いられたアンダーソンズ・ズアーヴスがいた。1801年建てられたブルックリン海軍工廠は北軍海軍のための物資の生産や造船を行う。南北戦争2年目には6,000人の男性人員を雇うなど、拡大を続けた。政府が運営する公共工場と数百あったナショナル・アーム社などの民間会社は軍服を始めとしたさまざまな物資を供給し続けた。 ノースカロライナ州のサムター要塞が南軍によって攻撃されるとリンカーンは多くの批判もものともせず多くの志願兵を募り、ニューヨーカー達は兵士になる者、金銭的なサポートをする者が現れた。3ヶ月経った1861年には1億5000万ドルが集められ、同年5月には30,000人の志願兵がニューヨークに結成されブロードウェイで盛大な行進を行った。ニューヨークは戦争中(ニューヨーク州も含めると)100万人以上の兵士を送り出した。ファイアー・ズアーヴスを筆頭にヒラム・バーデン大佐率いる狙撃手連隊など卓越した隊が次々と結成されていった。 1862年、ジョージ・オプディクはウッドを下して市長になり、彼はリンカーン支持者に後押しされ州軍よりも合衆国軍への支援をより強めた。また戦争によるウォールストリートの経済的混乱を未然に防いだ他、移民を徴兵する制度の見直しも図った。 合衆国議会とリンカーン大統領は近く多くの兵士の軍籍期間が満期になることを懸念して徴兵制度の可決に踏み切った。ニューヨークの徴兵日は7月中旬でリンカーンはミリシアと志願兵を市を統制するために送り込んだ(中にはゲティスバーグの戦いを終えて間もない者もいた)。アイルランド人を中心とした暴動が数千人にも及び、他の都市でも小規模の暴動が起きた。ニューヨーク徴兵暴動は共和党とアフリカン・アメリカンにその矛先が向けられ、この時の市の様子をジョン・E・ウール少将は『戒厳令が必要だったが、それを抑えることのできる兵力を私達は有していなかった』と述べている。大砲や銃剣を使い暴徒を沈静化させようとしたが効果がなく、暴徒は、遂にはビルをくまなく探しそれを破壊するという行為にまで出た。
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