南北戦争とニューヨーク徴兵暴動とは? わかりやすく解説

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南北戦争とニューヨーク徴兵暴動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:05 UTC 版)

ニューヨーク市の歴史」の記事における「南北戦争とニューヨーク徴兵暴動」の解説

1855年タマニー協会から初めニューヨーク市長当選したフェルナンド・ウッド。タマニー協会はこの時より時代牽引する重要な組織になる。 南北戦争最中ニューヨーク北軍兵士物資重要な拠点であった。また意気盛んニューヨーク政治家新聞記者たちは戦争当時大統領エイブラハム・リンカーン対し鋭い切り口意見述べたニューヨーク港ヨーロッパからやってくる新たな移民(特にアイルランドドイツ)を北軍兵士にする拠点となった。彼らは船から降りるとすぐに登録名簿に名が連ねられた。 ニューヨーク市南部とも強い商業的繋がり持っており、増え続け移民徴兵制度への不満から北軍アメリカ連合国軍どちらにもつかない人々もいた。1863年起こったニューヨーク徴兵暴動はその不満が最高潮達したアメリカ史最悪事件のひとつである。 1860年代、すでに人種のるつぼ化していたニューヨークさまざまな思想入り乱れた町だった。一方南部保守的アメリカ人多く住む地域奴隷制度廃止掲げたリンカーン大統領就任拒否しアメリカ合衆国脱退兆し現れた。第2期市長選に再当選したフェルナンド・ウッド (1860 - 1862) はニューヨーク民主党一員南軍擁護派であったため、忠実な北軍支持者からは"コッパーヘッド"(南軍びいきの北部人)と呼ばれた1861年1月ウッドは市の協議会ニューヨークは他のアメリカ地域とは違う自由な街を目指し南部との綿の貿易続けることを提案ウッズ率い民主党大きく南部との綿の貿易による歳入依存していた。ニューヨーカー民主党支持多く、その多くタマニー協会率いマシーンよるものだった。ウィリアム・トゥウィード率いる同協会市内数多くオフィス構え違法的にだが州の立法府司法にまで権限有していた。1860年から70年、トゥウィードは市内民主党候補者の大半を握中に収め一方ニューヨーク州北部では共和党優勢であったリンカーン支持者達はユニオン・リーグ(英語版)を結成大統領政策徹底的に支持したアメリカ合衆国陸軍ニューヨーク港守備のため戦争勃発前から南軍の攻撃備え要塞化図ったが、結果的ニューヨーク南軍攻められることは無かったラファイエットの砦、スカイラーの砦は結果的に南軍兵士捕虜収容所となった。またマクドゥーガル病院やデ・キャンプ・ジェネラル病院増え続け負傷兵収容する病院として設立された。Wig-Wagシステム呼ばれる信号ニューヨークで発明されアルバート・J・マイヤー少佐の下ニューヨーク港でその試験が行われた。リッカー島は白人およびアフリカン・アメリカン連隊最大軍事演習基地となり、新人兵士陸軍編成のための出資をした資産家ジョン・ジャコブ・アスター3世の名が付けられたキャンプ・アスターで行われた。キャンプ・アスターでトレーニング受けた軍の中には同島を所有していた一族末裔でジョン・ラファイエット・リッカー大佐率いられたアンダーソンズ・ズアーヴスがいた。1801年建てられブルックリン海軍工廠北軍海軍のための物資生産造船を行う。南北戦争2年目には6,000人の男性人員を雇うなど、拡大続けた政府運営する公共工場数百あったナショナル・アーム社などの民間会社軍服始めとしたさまざまな物資供給し続けたノースカロライナ州サムター要塞南軍によって攻撃されるリンカーン多く批判ものともせず多く志願兵募りニューヨーカー達は兵士になる者、金銭的なサポートをする者が現れた。3ヶ月経った1861年には1億5000ドル集められ同年5月には30,000人の志願兵ニューヨーク結成されブロードウェイ盛大な行進行ったニューヨーク戦争中ニューヨーク州含めると)100万人以上の兵士送り出した。ファイアー・ズアーヴスを筆頭にヒラム・バーデン大佐率い狙撃手連隊など卓越した隊が次々と結成されていった1862年、ジョージ・オプディクはウッド下して市長になり、彼はリンカーン支持者後押しされ州軍よりも合衆国軍への支援をより強めた。また戦争によるウォールストリート経済的混乱未然防いだ他、移民徴兵する制度見直し図った合衆国議会リンカーン大統領近く多く兵士軍籍期間が満期になることを懸念して徴兵制度可決踏み切ったニューヨーク徴兵日は7月中旬リンカーンミリシア志願兵を市を統制するために送り込んだ中にはゲティスバーグの戦い終えて間もない者もいた)。アイルランド人中心とした暴動数千人にも及び、他の都市でも小規模暴動起きたニューヨーク徴兵暴動共和党アフリカン・アメリカンにその矛先向けられ、この時の市の様子ジョン・E・ウール少将は『戒厳令必要だったが、それを抑えることのできる兵力私達有していなかった』と述べている。大砲銃剣使い暴徒沈静化させようとしたが効果がなく、暴徒は、遂にビルくまなく探しそれを破壊するという行為にまで出た

※この「南北戦争とニューヨーク徴兵暴動」の解説は、「ニューヨーク市の歴史」の解説の一部です。
「南北戦争とニューヨーク徴兵暴動」を含む「ニューヨーク市の歴史」の記事については、「ニューヨーク市の歴史」の概要を参照ください。

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