南北戦争とその後の経歴
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「ジェイムズ・ロングエーカー」の記事における「南北戦争とその後の経歴」の解説
南北戦争は経済的混乱をもたらし、卑金属セント貨など幾つかの貨幣を流通の場から除去することになった。紙幣(価値は低いもので3セント)、切手、民間商品券がその隙間を埋めた。商品券の多くはセントの大きさだったが、より薄く、青銅製だった。造幣局指導部は、これら金属貨幣がうまく流通し、青銅セント貨には法の裏付けもついたことに注目した。ロングエーカーのインディアンの顔のデザインは、新しい金属貨幣と共に使われ続けた。後の1864年、頭飾りの中に自分のイニシャル "L" を刻んだ。青銅セント貨を認めた法は2セント貨の発行もさせた。ロングエーカーはデザインを提供した。これをランゲは「特に魅力的な構成」と呼んでおり、矢と月桂冠が盾の横にある。しかし美術史家のコーネリアス・バミュールは、デザインの要素が「横向きの大砲だけが南北戦争の紋章という表現を完成させるために必要と」なっていると述べていた。財務長官のサーモン・チェイスは、戦争の時に国の神への信仰を貨幣に表現することを好み、造幣局支配人ポロックに「あなたはこの国の認識を必要最小限の簡潔な言葉でモットーとし、不必要に遅れることなく装置を準備させることになる」と記していた。「神は我々の信頼」や「神と我々の国」など幾つかのモットーをポロックが検討した。ロングエーカーの2セント貨は「イン・ゴッド・ウィー・トラスト」(我々は神を信じる)を刻印した最初の硬貨になった。 セント貨からニッケルが外された。これはペンシルベニア州の工業資本家でニッケルに大きな利権をもっていたジョセフ・ワートンの反対を乗り越えてのものだった。その選挙区の下院議員タデウス・スティーブンスがこの法に対して戦った。1864年、ワートンは貨幣に関する小冊子を発行し、その中で10セント未満の全ての貨幣は、ニッケルを25%含む銅ニッケル合金で作られると主張した。それはセント貨が含んでいたニッケルの倍以上の含有量だった。1865年3月、連邦議会はその合金による3セント貨を規定する法を成立させた。これはその額面の補助貨幣を引退させる意図があった。ロングエーカーは、その貨幣に、過去16年間に作成した女神の絵に似たリバティの顔を提供した。裏面には1959年のセント貨に使った月桂冠を、3セント銀貨に使っていたローマ数字IIIの周りに配した。 ニッケルの利用を促進するワートンやその他の者達は連邦議会でも強力なままであり、1866年には、銅ニッケル合金の5セント貨を認める法を確保した。ロングエーカーは多くのデザインを用意した。ポロックが表面に盾のデザイン(2セント貨に類似)を、裏面に星の円を配したものを選び、この盾ニッケル貨はその年に鋳造を始めた。造幣局試金者ウィリアム・デュボイスがロングエーカーに宛てた手紙で、「人が70年の時を過ぎて、以前にあったの同じ美的作品を生産できるのをみるのは真に喜ばしい」と書き送った。 1865年、連邦議会は「イン・ゴッド・ウィー・トラスト」を刻印できるだけ大きさがある全ての貨幣に使用することを求めた。1866年、ロングエーカーはこのモットーを10セントより大きな銀貨全てと、3ドルより大きな金貨全てに追加した。1867年にはまた、銅ニッケル5セント貨のデザインを修正した。この貨幣はニッケルと呼ばれるようになった。1865年、ロングエーカーはイギリス生まれの彫師ウィリアム・バーバーを助手にした。1864年にウィリアム・H・キーも助手になっており、ロングエーカーの死後も造幣局に留まった。 南北戦争の間に流通しなくなった貨幣の幾らかは、南アメリカに輸出され、チリで流通用に使われ続けた。そこでは現地通貨がアメリカのよりも品質で落ちていた。1866年、チリ政府はワシントンに送っている代表にアメリカ合衆国国務省に接近し、貨幣の型をアメリカで作らせる許可を求めさせた。アンドリュー・ジョンソン政権は喜んでこれに応じた。財務長官のヒュー・マカロックはチリに、フィラデルフィアのロングエーカーへの紹介状を与えた。ロングエーカーは銀貨5種と金貨4種のデザインをやり直す依頼を受け、マカロックから外部の報酬を受け取ることに許可を得られるという条件で同意した。マカロックは当初前向きだったが、造幣局支配人ポロックが、政府の資産を私的な利得のために使うべきではないという根拠で反対した。最終的に、ロングエーカーが外部の彫師を連れて来て、ロングエーカーの監視下に作業を行わせるという条件で、費用1万ドルでその仕事を引き受けることに関係者が合意した。ロングエーカーは以前の助手の1人だったアンソニー・C・パケットを選定した。パロックがアンドリュー・ジョンソン大統領のレコンストラクション政策に反対して辞任したことにより、造幣局内の反対がなくなった。1866年11月から型とハブ(それから新たな型が作られる)が、おそらくフィラデルフィア造幣所の建屋内で作られた。チリのためにロングエーカーが作ったデザインは、1890年代に新しいものが採用されるまで使われていた。 1867年、ロングエーカーは貨幣にアルミニウムを使うことを提案した。この件は、アルミニウムの供給と価格がかなり変動することから却下された。アルミニウムには固有の高い価値があった。1868年、ワートンの会社が10セント貨を銅ニッケル合金で作ることを提案し、また1セント貨、3セント貨、5セント貨の修正も提案した。このプロジェクトは、10セント貨の母材が大きすぎて、固い銅ニッケル合金で効果的に打てないことが分かったときに放棄されたが、ロングエーカーは多くの半ドル貨の大きさのパターンを用意した。金貨のデザインを彫り直す作業も始めており、その年末には10ドル金貨を完成させていた。
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南北戦争とその後の経歴
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「ジェイムズ・シールズ (上院議員)」の記事における「南北戦争とその後の経歴」の解説
シールズはその後カリフォルニア州に移転し、南北戦争の間は州から志願した部隊の准将を務めた。1862年のバレー方面作戦では、ポトマック軍第5軍団の第2師団(その後シェナンドー軍の一部)を率いた。3月22日の第一次カーンズタウンの戦いで負傷したが、その部隊はこの方面作戦の間で(あるいは南北戦争全体で)南軍ストーンウォール・ジャクソン将軍にとって唯一の戦術的敗北を経験させた。カーンズタウンの後で少将に昇進したが、この昇進は撤回され再検討された結果、最終的に拒否された。バレー方面作戦の残り期間は大した功績が挙げられず、その任務を辞任し、陸軍省もそれに抵抗することはなかった。 1863年、シールズはメキシコに移動して鉱山を運営し、その後ウィスコンシン州に行ったが、1866年にミズーリ州に移転して、州下院議員を務め、また鉄道会社の役員も務めた。1879年、アメリカ合衆国上院議員ルイス・V・ボギーの死去に伴う空席を埋める者として選出された。シールズはわずか3ヶ月間上院議員を務め、再選への出馬は辞退した。 シールズはアイオワ州オタムワで死去した。ミズーリ州キャロルトンのセントメアリー墓地に埋葬されている。シールズは1854年に『イリノイ州の歴史、1818年の州昇格から1847年まで』を編集した。国立彫像ホール・コレクションではイリノイ州を代表するものとしてその彫像が収められている。
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