ジェイムズ・シールズ (上院議員)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ジェイムズ・シールズ (上院議員)の意味・解説 

ジェイムズ・シールズ (上院議員)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 07:06 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
ジェイムズ・シールズ
James Shields
生年月日 (1810-05-10) 1810年5月10日
出生地 アイルランド王国ティロン州アルトモア
没年月日 1879年6月1日(1879-06-01)(69歳)
死没地 アメリカ合衆国アイオワ州オタムワ
所属政党 民主党

アメリカ合衆国上院議員
イリノイ州選出
在任期間 1849年10月27日 - 1855年3月4日

アメリカ合衆国上院議員
ミネソタ州選出
在任期間 1858年5月11日 - 1859年3月4日

アメリカ合衆国上院議員
ミズーリ州選出
在任期間 1879年1月27日 - 1879年3月4日
テンプレートを表示

ジェイムズ・シールズ英語: James Shields1810年5月10日 - 1879年6月1日)は、アイルランド生まれのアメリカ合衆国政治家であり、アメリカ陸軍の士官である。シールズは民主党員として、アメリカ合衆国の3つの異なる州でアメリカ合衆国上院議員に選出されたことではアメリカ史の中でも唯一の人物である。すなわち、1849年から1855年はイリノイ州選出で第31期から第33期まで、1858年から1859年はミネソタ州選出で第35期に、1879年の1月27日から3月3日まではミズーリ州選出で第45期のアメリカ合衆国上院議員となった。エイブラハム・リンカーンと決闘しそうになったことでも有名である。

生涯

初期の経歴

シールズは、やはりアイルランドで生まれ、オハイオ州選出アメリカ合衆国下院議員を務めたもう一人のジェイムズ・シールズ(1762年 - 1831年)の甥にあたる。1826年頃にアメリカ合衆国に移民し、イリノイ州ランドルフ郡カスカスキアに入り、そこで法律を勉強して実務を始めた[1]1836年からはイリノイ州議会下院議員となり、続いて州最高裁判所判事、1939年には州会計検査官を務めた(シールズはまだアメリカ市民でないときに選出された。イリノイ州は当時、議員になる資格として州内に6ヶ月間「居住」しているだけでよかった)。

シールズは1842年9月22日エイブラハム・リンカーンと決闘しそうになった。リンカーンがイリノイ州スプリングフィールドで新聞「サガモン・ジャーナル」に挑発的な手紙を掲載し、イリノイ州会計検査官すなわちシールズをからかった。シールズはこの記事を挑戦と受け取って「釈明」を要求し、イリノイ州アルトンに近いサンフラワー島と呼ばれるミズーリ川の島で2つの党派が会して決闘に立ち会うというところまで拡大した。決闘に及ぶ直前に、2人の介添え人が間に入って、リンカーンがその手紙を書かなかったという根拠で敵対関係を止めるよう説得できた[2]

1846年、シールズは米墨戦争で戦うための志願兵の准将に選出された。リオ・グランデ川沿いでザカリー・テイラー将軍の下に仕えた。ベラクルス包囲戦セルロ・ゴードの戦いでは志願兵師団の第3旅団を指揮し、このとき負傷した。コントレラスの戦いチュルブスコの戦いには復帰し、その旅団は第4師団の一部となった。チャプルテペクの戦いでは再度負傷した。

戦争が終わった後の1848年8月14日ジェームズ・ポーク大統領に指名され、アメリカ合衆国議会に確認されて同日に創設されたオレゴン準州知事を務めることになった[3]。しかしシールズはその職を辞退し、ジョセフ・レインが新準州の初代知事に指名されて就任した[4]。シールズはイリノイ州から上院議員選挙に出馬するためにこの職を辞退した。しかし、その当選は、アメリカ合衆国憲法で要求される9年間アメリカ合衆国市民であることという条件に適っていなかったために上院によって無効とされた。シールズは1840年10月21日に帰化していた。シールズはイリノイ州に戻って再選のために運動を始め、自分自身の空けた席のための特別選挙に勝利して議員となった。

1855年に再選を求めたが落選したため、ミネソタ州に移転した。ミネソタ州からは初代上院議員2人のうちの1人として当選したが、任期は1858年から1859年までであり、このときも再選はならなかった。

南北戦争とその後の経歴

シールズはその後カリフォルニア州に移転し、南北戦争の間は州から志願した部隊の准将を務めた。1862年バレー方面作戦では、ポトマック軍第5軍団の第2師団(その後シェナンドー軍の一部)を率いた。3月22日第一次カーンズタウンの戦いで負傷したが、その部隊はこの方面作戦の間で(あるいは南北戦争全体で)南軍ストーンウォール・ジャクソン将軍にとって唯一の戦術的敗北を経験させた。カーンズタウンの後で少将に昇進したが、この昇進は撤回され再検討された結果、最終的に拒否された。バレー方面作戦の残り期間は大した功績が挙げられず、その任務を辞任し、陸軍省もそれに抵抗することはなかった。

1863年、シールズはメキシコに移動して鉱山を運営し、その後ウィスコンシン州に行ったが、1866年ミズーリ州に移転して、州下院議員を務め、また鉄道会社の役員も務めた。1879年、アメリカ合衆国上院議員ルイス・V・ボギーの死去に伴う空席を埋める者として選出された。シールズはわずか3ヶ月間上院議員を務め、再選への出馬は辞退した。

シールズはアイオワ州オタムワで死去した。ミズーリ州キャロルトンのセントメアリー墓地に埋葬されている。シールズは1854年に『イリノイ州の歴史、1818年の州昇格から1847年まで』を編集した。国立彫像ホール・コレクションではイリノイ州を代表するものとしてその彫像が収められている。

ギャラリー

脚注

  1. ^  Herbermann, Charles, ed. (1913). "James Shields" . Catholic Encyclopedia (英語). New York: Robert Appleton Company.
  2. ^ Carnegie, Dale (1982). How to Win Friends & Influence People. New York, NY: POCKET BOOKS. pp. 9. ISBN 0-671-72365-0 
  3. ^ Senate Executive Journal: Monday, August 14, 1848. Library of Congress, retrieved September 13, 2007.
  4. ^ Senate Executive Journal: Tuesday, December 12, 1848. Library of Congress, retrieved September 13, 2007.

参考文献

  • Eicher, John H., and Eicher, David J., Civil War High Commands, Stanford University Press, 2001, ISBN 0-8047-3641-3.

外部リンク

公職
先代:
リーヴァイ・デイヴィス
イリノイ州会計検査官
1841年-1843年
次代:
ウィリアム・リー・D・ユーイング
官職
先代:
トーマス・H・ブレイク
総合土地事務所長
1845年-1847年
次代:
リチャード・M・ヤング
アメリカ合衆国上院
先代:
シドニー・ブリーズ
イリノイ州選出上院議員(第3部)
1849年-1855年
同職:スティーブン・ダグラス
次代:
ライマン・トランブル
先代:
新設
ミネソタ州選出上院議員(第2部)
1858年-1859年
同職:ヘンリー・ライス
次代:
モートン・S・ウィルキンソン
先代:
デヴィッド・H・アームストロング
ミズーリ州選出上院議員(第3部)
1879年
同職:フランシス・コックレル
次代:
ジョージ・G・ベスト



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジェイムズ・シールズ (上院議員)」の関連用語

ジェイムズ・シールズ (上院議員)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジェイムズ・シールズ (上院議員)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジェイムズ・シールズ (上院議員) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS