南北戦争とロシアへの派遣
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「カシアス・マーセラス・クレイ (政治家)」の記事における「南北戦争とロシアへの派遣」の解説
1861年3月28日、リンカーン大統領はクレイをサンクトペテルブルクのロシア宮廷への特命全権公使に任命した。クレイがロシアへ出発する前に南北戦争が始まった。当時ワシントンD.C.には連邦軍がいなかったため、クレイはホワイトハウスとワシントン海軍工廠を南軍の攻撃から守るために300人の志願兵を組織した。この部隊は「カシアス・M・クレイのワシントン警備隊」として知られている。リンカーン大統領はその功績を称えて、クレイにコルト製リボルバーを贈った。連邦軍がワシントンD.C.に到着すると、クレイは家族とともにロシアに向けて出発した。 ロシアにおいてクレイは、ロシア皇帝アレクサンドル2世が農奴解放令を発するのを目撃した。1862年、リンカーンは北軍少将として南北戦争に従軍させるためにクレイを呼び戻したが、クレイは、リンカーンが南軍の支配下にある奴隷の解放に同意しない限りその任務を拒否すると公然と表明した。リンカーンはクレイをケンタッキー州などのアメリカ連合国に接している州に派遣し、奴隷解放の実施可能性について調査させた。クレイがワシントンD.C.に戻った後、リンカーンは1862年末に奴隷解放宣言を公布し、1863年1月に発効した。 クレイは1863年3月にロシアに戻り、1869年まで公使として勤務した。クレイは、アラスカ購入の交渉にも影響力を発揮した。 また、クレイは在ロシア全権公使として、ロシアからの北軍への援助を取り付けることに尽力した。ロシアは北軍の支援に乗り出し、イギリスやフランスがアメリカ連合国(南軍)を正式に認めれば両国に対し宣戦すると脅した。 皇帝アレクサンドル2世は、大西洋と太平洋に展開するロシア艦隊に密書を送った上で、それぞれアメリカの東海岸と西海岸に派遣した。密書は、イギリスとフランスが南軍側で参戦した場合にのみ開封するようにと指示されていた。ロシアの大西洋艦隊がニューヨーク港に入港したとき、海軍長官ギデオン・ウェルズは日記にこう書いている。 この国にこれらの船を送ることには、何らかの重要な意味がある。それがフランスとその政策にどのような影響を及ぼすのか、我々はそのうちに知ることになるだろう。それは穏健なものかもしれないし、悪化するかもしれない。ロシアに神のご加護のあらんことを。 皇帝アレクサンドル2世の南北戦争におけるこの行動は、ペンシルバニア州のウォートン・バーカー(英語版)によって1904年に明らかにされた。彼は1878年にロシア政府の米国における金融エージェントであった。
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