鉄道と電信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 00:07 UTC 版)
1879年、グールドはユニオン・パシフィック鉄道やミズーリ・パシフィック鉄道を含み西部の鉄道4社を支配した。彼はこうして中西部の鉄道システムを作り上げることを始めた。同1879年、インターナショナル・オーシャン電信会社(International Ocean Telegraph Company)の支配権を掌握した。1880年には1万マイル (16,000 km) の鉄道を支配し、これは当時のアメリカ合衆国全体の鉄道路線のほぼ9分の1となり、グールドは1882年までにその15%を支配するようになった。1881年以降はニューヨーク市の高架鉄道も手に入れた。グールドは1833年に連邦政府に対する負債で政治的論争の渦中にあったユニオン・パシフィックの管理から撤退し、それで大きな利潤を得た。 グールドはまたウエスタンユニオン電信会社を支配するようになった。そして、ウェスタンユニオンのために①最初に取得したインターナショナル・オーシャン電信会社を99年の期限付きで借り受け、②アメリカン・ユニオン電信会社(American Union Telegraph Company)と、同社を通してそのカナダの持株会社を取得できるよう取り計らった。すなわち、ウェスタンユニオンのシステムは、物理的に大西洋横断電信ケーブルと結合され、さらに金融的にもカナダの通信システムと結合された。1883年12月12日、コマーシャル・ケーブル会社(Commercial Cable Company)が創設され、グールドによる電信・ケーブル敷設の独占を打ち破った。 1868年から1888年の期間に、グールドは合衆国最大の鉄道財務運営会社の多くに関係を持った。1886年サウスウェスト鉄道大ストライキの間にはスト破りを雇った。労働組合活動家に拠れば、当時グールドは「私なら労働階級の半分を雇って残り半分を殺すこともできる」と言ったと言われている。
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