ポサダの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:10 UTC 版)
バサラブはハンガリーと敵対していたブルガリア皇帝ミハイル3世シシュマンの甥イヴァン・アレクサンダルの元に娘を嫁がせた。1329年3月27日の文書では、ハンガリー王国を取り巻く敵国として、ブルガリア、セルビア、ジョチ・ウルスとともにバサラブの名前が挙げられていた。 1330年にバサラブはミハイル3世シシュマンのセルビア遠征に参戦するが、ヴェルブジュドの戦いの結果、戦争はセルビア側の勝利に終わる。戦後バサラブはハンガリーの攻勢に備え、ブルガリア、セルビアの双方と協約、婚姻関係を結んだ。 ヴェルブジュドの戦いの後、カーロイ1世はセヴェリン・バナトを占領するため、ワラキアに遠征を行った。セヴェリン・バナトがハンガリーに奪還された時、バサラブは毎年の貢納と銀7,000マルクの支払い、加えてハンガリーへの臣従と引き換えに和平を提案するが、カーロイ1世はバサラブの提案を拒否してワラキアへの進軍を続け、クルテア・デ・アルジェシュにまで到達する。しかし、ハンガリー軍は食料の供給に困難をきたしたため、カーロイ1世はワラキア軍と戦うことなく、トランシルヴァニアへの撤退を余儀なくされる。 ワラキア軍はポサダでハンガリー軍を待ち受けており、ワラキア軍がハンガリー軍が通行する狭い峡谷を取り囲んだとき、ハンガリー兵は自分たちが罠にかかったことを悟る。11月12日、3日に渡る戦闘の末にハンガリー軍は完全に打ち破られ、カーロイ1世は戦場から命からがら脱出する。
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