公国の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 04:54 UTC 版)
詳細は「ワラキア公国(ルーマニア語版、トルコ語版、ドイツ語版、英語版)」を参照 ワラキアのヴォイヴォドについて初めて記された文献には、カルパチア山脈の両側の土地(トランシルヴァニアのハツェグ国を含む)を支配していたワラキア公リトヴォイ(Litovoi)に関連する記述が登場する(1272年)。リトヴォイはハンガリー王ラースロー4世へ朝貢することを拒んだとされる。リトヴォイの後を継いだのは弟のバルバト(Bărbat、在位1285年-1288年)であった。さらなるモンゴル侵攻(1285年-1319年)でハンガリー国家の弱体化が続き、アールパード王家が崩壊したことでワラキア諸勢力の統合、そしてハンガリー支配からの脱却の道が開けた。 ワラキアの建国は、伝承によればワラキア公ラドゥ・ネグル(Radu Negru)の業績とされてきた。ラドゥ・ネグルは、歴史学上はオルト川の両岸に支配を確立しハンガリー王カーロイ1世に対し反乱を起こしたバサラブ1世に比定される。アルジェシュ地方のクネズ(首長)であったバサラブ1世は豪族たちをまとめ上げてバサラブ朝初代の公となり、クンプルングに宮廷をかまえた。バサラブ1世はファガラシュ、アムラシュ(Amlaş)、セヴェリンのバナトの領土をハンガリーへ割譲することを拒み、1330年のポサダの戦い(ルーマニア語版、ハンガリー語版、英語版)でカーロイ1世軍を撃破したことによってワラキア公国の独立が達成された。バサラブは東へ領土を拡張し、のちのベッサラビアとなる、ブジャクのキリアにまで至る領土を支配した。しかし、バサラブ1世の後継者らはキリアの支配を維持することができず、キリアは1334年頃ノガイ人によって奪われた。 バサラブ1世の次にワラキア公となったのはニコラエ・アレクサンドルで、ニコラエの次はヴラディスラフ1世が継承した。ヴラディスラフ1世は、ラヨシュ1世がドナウ川南部を占領するとトランシルヴァニアを攻撃した。1368年には、ラヨシュ1世を大王と認めることを余儀なくされたが、同じ年に再び反乱を起こした。ヴラディスラフ1世の統治時代にはまた、最初のワラキア=オスマン帝国間の紛争が生じた。対トルコ戦ではブルガリア皇帝イヴァン・シシュマン(Ivan Shishman)と同盟を結んだ。ワラキア公ラドゥ1世とその後継であるダン1世のもとでは、トランシルヴァニアとセヴェリンの領土がハンガリー王国との間で争われ続けていた。 バサラブ1世以降、ワラキアの統一的統治者は「公」(ルーマニア語:DomnまたはDomnitor、英語:Prince)と呼ばれる。それぞれが大土地所有者であるボイェリ(Boyar、ボヤールとも。封建貴族階級)は、自身の領地から賦役と十分の一税を取り立て、私兵を有する封建領主であった。建国より16世紀初頭まで公位はバサラブ朝の世襲であったが、長子相続制は確立されず、公家の男子なら誰にでも即位する資格があった。ボイェリ達は自分たちにとって都合のいい候補者を立てて、相争った。そのため、公権は弱体で、公は終身制と決まっているわけではなく、ごく短期で交替したり、同じ人物が2度、3度公位につくこともあった。 公は、役職者及び無官の大ボイェリによって構成される公室評議会に補佐されて統治を行った。役職には、宮廷における最高の役職である太政官(ヴォルニク)、公室宮廷の最重要役職である宮内卿(ロゴファット)、公国収入を処理する大蔵卿(ヴィスティエール)、儀式で公の刀剣を保持する公剣保持職(スパタール)、公室馬寮及び供奉車係の主馬寮(コミス)、公個室の管理に当たる侍従(ポステルニックまたはストラトルニック)、公及び公の客をもてなす内膳頭(ストルニック)、公室用ワインの管理・購入役の司厨職(パハルニックまたはチァシュニック)等が存在した。公は建前上、立法権、行政権、司法権、統帥権の全権を保有するとされていたが、その権力は公室評議会によって著しく制限されているのが実態であった。 「en:Historical Romanian ranks and titles」も参照
※この「公国の誕生」の解説は、「ワラキア」の解説の一部です。
「公国の誕生」を含む「ワラキア」の記事については、「ワラキア」の概要を参照ください。
- 公国の誕生のページへのリンク