公国の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 01:18 UTC 版)
公国はヴァイキングが植民地化したルーアン伯領、コーおよびタロウ(ディエップ伯領)から形成された。912年にルーアンで首都が樹立され、後に公国の拡大とともに西方のカーンに首都が樹立された。 928年にはエヴルー伯領、イエモワ伯領およびベッサンが加わった。 931年から934年にかけてロロの息子であるギョーム1世長剣公はコタンタン半島とアヴランサンを編入した。チャンネル諸島は933年に編入されている。 950年から956年にかけての時折、ノルマンディーおよびその辺境地帯は辺境伯の地位を獲得した。 リシャール2世は最初にノルマンディー公の称号を用いた(公の称号は987年から1006年の間に設置された)。 1066年にノルマンディー公ギョーム2世はヘイスティングズの戦いでイングランド国王ハロルド2世を撃破してイングランド王についた。このノルマン・コンクエストは当然のことながらノルマン化の始まりとなった。 ノルマン・コンクエスト後に、ノルマンディーの支配者がフランス国王 の封臣として忠誠を誓う形でノルマンディーの地を支配する一方で同時にイングランド王として対等の地位にあったことは アングロ=ノルマンとフランスの関係を複雑なものにした。1150年代のアンジュー帝国の創立はノルマンディーがフランスの半分とイングランド全土を支配することでフランスの力を小さく見せた。 アングロ=ノルマン王国の一部としての公国支配は1204年のフランス国王フィリップ2世による征服まで続き、それ以降はフランス王領となった。イングランド王は 1259年のパリ条約まで要求し続けたが現実のところはかつての公国の内、チャンネル諸島 を保持したのみであった。 ノルマン朝の忠誠を僅かに確信しつつ、フランス王は新たな領域に行政官を据えて王権の象徴としての強力なルーアン城という要塞を築いた。王領の内、ノルマンディーは幾つかの独自性を保持していた。ノルマン法は裁判の判決として使用され続けた。1315年にノルマンディーにおける自由への止むことのないフランス王権の浸食に直面すると伯爵や町民は国王にノルマン憲章を押し付けた。この文書は地方の自治権を有していないが、王の行動への抗議であることには議論の余地はない。ノルマンディーの宮廷の主要部である財源の評決は最終的に宣言された。これはパリがルーアンの評決をひっくり返すことが出来ないことを意味していた。その他の重要な譲歩は、国王はノルマンディーの承諾を得ずに税を上げることが出来ないことである。しかしながら、憲章は王の権威が怯んだ時に叶えられたのであり、王権が回復されるや反故されるようになった。 ノルマンディー公国は主に公が断続的に任じられることで生き延びた。実際のところフランス王は時々王国の一部を自分に忠誠を誓っていない近縁の王家の者に与えていた。フィリップ6世は自身の長子で後継者であるジャン2世をノルマンディー公に任じており、そのジャン2世は自身の後継者で「ドーファン」の称号で知られるシャルル5世をノルマンディー公に任じている。 1465年にルイ11世は貴族達によって18歳の弟ベリー公シャルルに扶持として公国を譲渡することを強要された。この譲歩はルイ11世にとってはシャルルが敵対勢力の傀儡になったことを意味する懸案であった。ノルマンディーはこのように王権に敵対する勢力の基盤になり得た。それゆえにルイ11世はシャルルとノルマンディーとギュイエンヌ(アキテーヌ)公領を交換することに同意した。最終的には、1469年に公内の徒党が固められて粉砕されたことからノルマンディーは最終的には譲渡されることがないことを意味した。これは大陸側の公国の決定的な終焉であった。 それにも係わらず、1660年12月31日にジェームズ2世はルイ14世によって名誉的な「ノルマンディー公」に叙せられている。これはジェームズ2世の兄であるチャールズ2世がイングランドとアイルランドの王位に返り咲いてから数か月後のことであり(チャールズ2世は1651年にスコットランドで戴冠式を済ませていた)、恐らくはルイ14世によるジェームズ2世への支援による政治的ジェスチャーだと思われる。チャールズ2世もまた「ノルマンディー公」を請求していたからである。 ルイ16世の2番目の息子で兄が死んだ1789年以前のルイ=シャルル王太子が最終的なノルマンディー公として知られているが、この称号は純粋な儀礼称号であった。
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