公国の形成
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1318年、トヴェリ公ミハイルがジョチ・ウルスにおいて処刑された後、その領土は4人の息子たちによって分割相続された。この時、最も年少のヴァシリーがカシンを含むトヴェリ公国の北東部を相続し、カシン公国が誕生した。なお一説には、この段階ではカシンはヴァシリーの兄コンスタンチンが受領し、後にモスクワ公ユーリーがコンスタンチンを拘束した際にヴァシリーが相続したともいわれる。
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公国の形成
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ポロツクに関する古い記録には、5世紀ごろの「西ドヴィナ川流域のヴァイキングの大きな都市」としての記述がある。またサクソ・グラマティクスの『デンマーク人の事績』には、「フロド1世と子のハディンガが、策謀によってポロツクの王ヴェスパシを殺した。都市の強固さにより征服できなかったからである。(注:三名ともロシア語表記の日本語音写)」という主旨の記述がある。ルーシの記述では、『原初年代記』(ラヴレンチー写本)における862年の記述が初出である。なお『ニコン年代記』によれば、アスコルドが872年にポロツクを占領している。 10世紀後半には、ポロツクには独立した支配者・ログヴォロド(en)がいたが、980年にノヴゴロド公ウラジーミル(後のキエフ大公・ウラジーミル1世)はポロツクを破壊し、ログヴォロドを殺し、ログヴォロドの娘のログネダを強制的に妻にした上にポロツクを併合した。987年ごろ、ログネダはウラジーミル1世を暗殺しようとするが失敗し、ウラジーミル1世は自分とログネダとの間の子・イジャスラフをポロツクに置いた。(このイジャスラフは後の歴代ポロツク公の祖先となる。)初めのうち数年は、ウラジーミル1世が建設したイジャスラヴリ(現ベラルーシ・ザスラーウエ)に首都があったが、しばらく後にイジャスラフがポロタ川左岸の要害の地にポロツクを再建し、首都を移転した。なお、おそらく摂政にログネダが就いていたと考えられている。 992年、ポロツクに正教の主教座が置かれた。アイスランドのサガによれば、ポロツクは1000年ごろにアイスランドのヴァイキングのキリスト教徒・トルヴァリドから洗礼を受けた。サガによれば、トルヴァリドは東ローマ皇帝バシレイオス2世から「東バルトのルーシの都市」に対する全権大使に任ずる旨の勅書を与えられ、ルーシの地に来たとされている。
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