公国の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/04 04:52 UTC 版)
1276年以後、エドワード1世による4度の侵攻を受け、激しく抵抗したが、1282年にウェールズ大公のルウェリン・アプ・グリフィズがエドワード1世に敗れ、イングランドの支配下に置かれた(Conquest of Wales by Edward I)。エドワード1世は長男エドワード(エドワード2世)にウェールズ大公の称号を与えたが、ウェールズ人は決してイングランド人に同化されなかった。逆にウェールズ人の民族意識を強め、この地に植民した異民族のほとんどがウェールズ人化されたという。 薔薇戦争(1455年 – 1485年)の際には、ウェールズはその政争争奪の舞台になり、1485年のボズワースの戦いで勝利したリッチモンド伯がヘンリー7世として即位し、ウェールズ人のウェールズ大公の血統から出てイングランド王家に収まった(テューダー朝)。また、ウェールズ人の長弓(ロングボウ)隊はイングランド王の軍勢の強力な戦力として名をはせた。後世のテューダー家に至っては、1536年の合同法(英語版)による表面上のウェールズ統合により、単一国家「イングランド王国」或いは「イングランドおよびウェールズ」とし、実相としてこの王朝の家臣団でウェールズ人が重要な地位を占めた。こうした経緯から、ウェールズ人は同王朝のヘンリー8世からエリザベス1世までの国王が推進したイングランド国教会創設などに協力的な姿勢を見せ、イングランドおよびウェールズの歴史を紐解く上で重要な画期になった。 だが、クロムウェルによる独裁(イングランド共和国)の後は、政治的に力を落とし、18世紀に入るとメソディストの影響を受けて、1811年に国教会から独立したウェールズ長老教会を結成した。1979年にウェールズ議会設置の是非について投票が行われ、否決されたものの、1997年の投票では設置が決定され、2年後に議会選挙が行われた。ウェールズ人としてのアイデンティティは21世紀になった現在でも非常に強いと言われている。
※この「公国の滅亡」の解説は、「ウェールズの歴史」の解説の一部です。
「公国の滅亡」を含む「ウェールズの歴史」の記事については、「ウェールズの歴史」の概要を参照ください。
- 公国の滅亡のページへのリンク