公国の落日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 06:03 UTC 版)
14世紀以来、トヴェリ、モスクワ大公国、そしてリトアニアがノヴゴロドとその溢れんばかりの富を虎視眈々と狙っていた。ヴラジミール大公の地位を得たトヴェリのミハイル・ヤロスラヴィチはその力を背景にノヴゴロドに代官を送るようになった。ノヴゴロドとミハイルの間には争いが絶えず、ノヴゴロドはユーリー(モスクワ公ダニールの子。)が治めるモスクワに接近しはじめた。一方で、接近するトヴェリはますますノヴゴロドを恐怖させていた(トヴェリはノヴゴロドに隣接している。ノヴゴロドは、トヴェリが領地の割譲を要求し、公国がますます弱体化することを何よりも恐れていた。一方、モスクワがノヴゴロドの領地を要求したことはなかった。モスクワは隣接するトヴェリと異なり、ノヴゴロドから遠く、ノヴゴロド公として推戴するために都合が良かった。モスクワならノヴゴロドが危機に陥ったときは来援してくれるが、過剰なまでに公国に介入することはないだろうと考えられた。 モスクワが強大化するにつれて、今度はモスクワがノヴゴロドにとって深刻な脅威となった。イヴァン1世、セミョーンをはじめとするモスクワの君主たちは、様々な手段でノヴゴロドの主権を制限しようとした。1397年、ドヴィナ川沿いのドヴィナ地方をモスクワが併合しようとしたことで、両国の間に決定的な対立が生まれた。この地は多くの毛皮を産出するため、ノヴゴロド市民にとって欠かせない領地であった。結果的に、この地域は翌年にはノヴゴロドに返還された。 モスクワの圧力に抵抗して、ノヴゴロドはコモンウェルス、すなわちポーランド・リトアニア共和国と同盟することを試みた。ノヴゴロドのボヤールたちは、モスクワに征服されれば富はモスクワ大公とモスクワのボヤールに没収されると考えていたため、何よりも公国の独立を望んだ。ただし、ボヤールの77.8%が戦争が可能なほどの収入を得ていなかった。伝承によれば、コモンウェルスとの同盟を主唱したのはポサードニクのイサーク・ボレツキー(ru:Исаак Борецкий)の妻であるマルファ・ボレツカヤが率いるグループであり、これは「リトアニア派」と称された。 同じ伝承によれば、マルファはリトアニア公の子ミカイラス・オレリカイティスを招き、自身と結婚することでノヴゴロド公に就任するよう求めた。また、彼女は同時にポーランド王とリトアニア大公を兼ねるカジミェシュ4世との同盟も要請した。ノヴゴロドがモスクワを裏切り、コモンウェルスと組むかもしれないという報せは国中を駆け巡り、庶民までもが上を下への大騒ぎとなった。Janet MartinとGail Lenhoffが指摘するところによれば、この計画の首謀者は大主教Feofil(在職1470-1480)であった。ノヴゴロドは既にモスクワとヤジェルビーツィ条約を結んでおり、モスクワ大公の許可を受けずに外国と条約を締結することはできないはずであった。この裏切りの非難をかわすため、マルファはスケープゴートにされたというのである。 マルファがリトアニア派として果たした役割は多少誇張されているものの、ノヴゴロドがコモンウェルスと結ぼうとしたことは事実である。シェロン河畔の戦い後の略奪によって、コモンウェルスとノヴゴロドが交わすはずだった条約の下書きが発見された。 モスクワの権力者らはノヴゴロドの行動をヤジェルビーツィ条約に対する侵害であると考え、すぐさまノヴゴロドへ軍を差し向けた。1471年、モスクワ軍はシェロン河畔の戦いで決定的な勝利を収め、ノヴゴロドは実質的な主権のほとんどを失った。その後も7年にわたって形式的な独立が維持されたが、1478年、イヴァン3世はノヴゴロドに再度軍を送り、市民を虐殺すると同時に民会を破壊した。イヴァンはノヴゴロド領の81.7%を占領し、半分は自分自身のものに、残りは盟友に分け与えた。
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