公国の独立化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 05:53 UTC 版)
キエフ大公国からのポロツク公国の分離と、独立した公国への変化は、イジャスラフの治世から既に始まっていた。このときポロツク公国は、ルーシ北西部にあたる西ドヴィナ川中流域、ベレジナ川とネマン川の上流域に、十分に広い領土を占めていた。西ドヴィナ川、そしてドニエプル川の上流に近接していることで、バルト海から黒海までの輸送が容易なものとなり、ポロツク公国に大きな利益をもたらしていた。農業・狩猟・漁撈と、支配領域内の沼や湖から産出する鉱石を原料にした鉄の生産が、ポロツク公国の繁栄を促進した。 イジャスラフの子・ブリャチスラフは、ポロツク公国の領土に、西ドヴィナ川とジスナ川の間の都市・ブリャチスラヴリ(現ベラルーシ・ブラスラウ)を加えた。1020年、ブリャチスラフはノヴゴロドを攻撃したが、帰路においてスドマ川でノヴゴロド公(兼キエフ大公)ヤロスラフ1世の軍に追いつかれ、捕虜と戦利品を捨てて逃走した。しかし次の年には和平条約の締結によって、ヴィテプスクとウスヴャートィを獲得した(スドマ川の戦い)。この和平条約にもかかわらず、おじ・おいの関係にあるブリャチスラフとヤロスラフ1世との間の軍事行動は止まなかった。「全ての日に命を賭して」と年代記に語られるほどに、ブリャチスラフは戦いを続けた。
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