公国の出現
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ルーシの年代記(レートピシ)における、トヴェリの初出は1135年である。12世紀から13世紀始めまでは、トヴェリはペレヤスラヴリ・ザレスキー公国に属する都市だった。公国(分領公国)としての分離はおそらく、ウラジーミル大公ヤロスラフがジョチ・ウルス領内で死亡し(1246年)、ウラジーミル大公位を継いだスヴャトスラフ(ru)が、死亡したヤロスラフの子のヤロスラフに公位を与えたのが始まりであると考えられている。トヴェリ公位に就いたヤロスラフは、ウラジーミル大公位をめぐる兄アレクサンドルとアンドレイ(ru)の闘争に介入し、自身も一時ウラジーミル大公位を得ている。ヤロスラフの後はその子のスヴャトスラフ、同じく子のミハイルへとトヴェリ公位・公国が受け継がれた。ミハイル統治期の初期に、トヴェリ公国軍は侵入してきたリトアニア軍を破っている。 ウラジーミル大公位をめぐるコストロマ公アンドレイとペレヤスラヴリ・ザレスキー公ドミトリーとの間に行われていたウラジーミル大公国の内戦(ru)に、ドミトリー陣営に立って参戦していたトヴェリ公ミハイルは、1293年に同陣営のロストフ公ドミトリー(ru)の娘アンナ(ru)と結婚し、カシンがトヴェリ公国領へと編入された。 また、1295年、トヴェリ公国はノヴゴロド共和国と、タタール並びに他の勢力に対する防衛協定を締結した。これはルーシ諸公国がタタール(ジョチ・ウルス)に抵抗するために組まれた最初の協定であった。
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