公国の分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 05:53 UTC 版)
フセスラフの存命中から既に、所領を巡る闘争の発生が危ぶまれていた。元来、公国はフセスラフの長子・ダヴィドの子孫が受け継ぐものだったが、やむを得ず、フセスラフの子たちの間に分領公国を分割し、ポロツク公国の改編を始めた。これは必然的に統一された強力な公国の断片化につながった。初めは6つに、その後さらに複数の分領公国に分かれた。ポロツク公国領に派生した主な公国にはミンスク公国・ヴィテプスク公国・イジャスラヴリ公国・ロゴジュスク公国・ドルツク公国・ストレジェフ公国等がある。 1121年、キエフ大公ムスチスラフ1世は、ポロツクの領土に大規模な軍を派遣し、荒廃させ、服従を強いた。さらに1129年には全てのポロツクの公たちをビザンツ帝国に追放し、ポロツク公には自分の子・イジャスラフ2世を据えた。 しかしムスチスラフ1世の子たちのポロツク統治は3年間続いたのみだった。1132年には、ポロツク公の家系を代表するヴァシリコ(ポロツク公国の祖イジャスラフの来孫であり、フセスラフの孫にあたる。)が現れた。 ポロツク公の公位はフセスラフの子孫の元に戻ったが、今度はヴァシリコに対し、フセスラフの子孫のうち有力な3つの家系(ヴィテプスク公家・ミンスク公家・ドルツク公家。ヴァシリコはヴィテプスク公家に属する。)の間で、ポロツク公国をめぐる闘争が始まった。なお、この争いの時代が続くが、1186年以降のポロツクの支配者に関する資料はほとんど消失している。国家の枠組みとしては、この時期にはポロツク公国は次第に弱体化し、さらに細分化していった。また、スモレンスク公国の影響力が増大したらしく、一時期、ポロツク公国の都市の一部がスモレンスクの手に渡っている。
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