ヘンリク4世の誘拐とストレツの戦い(1272年 - 1278年)
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「ボレスワフ2世ロガトカ」の記事における「ヘンリク4世の誘拐とストレツの戦い(1272年 - 1278年)」の解説
1270年以降、ボレスワフ2世の戦力の衰えが顕在化し、彼は自分の幼い息子により大きな権力を残そうと動き出した。 1273年、ボレスワフ2世は長男のヘンリク5世にヤヴォル(ヤウアー)を公国として与え、自身は政治の舞台から引退するかに見えた。しかし、1277年にボレスワフ2世は皆を驚かせる行動に出た。ボレスワフ2世はローマ王ルドルフ1世(ライバルのボヘミア王オタカル2世と他のポーランド諸公との同盟関係を壊そうと狙っていた)との同盟に調印し、ルドルフ1世の要請に基づいて、オタカル2世の同盟者であり自分自身の甥でもあるヘンリク4世(ヘンリク3世の息子)を誘拐した。この誘拐の口実は、1270年にボレスワフ2世の末弟であるザルツブルク大司教ヴワディスワフが1270年に死んだ時、ヘンリク4世がヴロツワフの3分の1を要求したことに対する罰だとされた。ヘンリク4世は高貴な囚人としてレグニツァの城に幽閉された。 ヘンリク4世を解放するべく、ボヘミア王オタカル2世、グウォグフ公ヘンリク3世及びヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世の3者が連合、両軍は4月24日にストレツの戦いで激突した。ボレスワフ2世の軍隊は連合軍に比べかなり小規模であり、戦いが始まった時には敗北するかに見えた。しかしボレスワフ2世の息子ヘンリク5世が予想外の奮戦を見せ、諸公の連合軍を打ち破った。結局、この争いは賠償金で解決し、ヘンリク4世は自らの公国の領域の3分の1にあたるシロダ・シロンスカ(ノイマルクト)をボレスワフ2世に譲渡することで解放された。 この戦勝はボレスワフ2世にとって最後の成功であり、1278年12月26日(31日とも)に58歳(53歳とも)で死去、レグニツァのドミニコ会修道院に埋葬された。遺領は3人の息子ヘンリク5世、ボルコ1世、ベルナルトが分け合った。 ボレスワフ2世は中央集権の失敗と弟達の反乱に敗北したことにより、シロンスク公国の分裂を招いてしまった。シロンスク諸公は以後も分裂と内乱を繰り返し、ドイツやボヘミアとの結びつきを強めた。この結果、後にポーランド王国が再興された時、シロンスク諸公はボヘミアに臣従、ポーランド王国から外れてボヘミア、ひいてはドイツの領邦化を招いた。
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