ヘンリク4世の誘拐とストレツの戦いとは? わかりやすく解説

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ヘンリク4世の誘拐とストレツの戦い(1272年 - 1278年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/22 08:47 UTC 版)

ボレスワフ2世ロガトカ」の記事における「ヘンリク4世の誘拐とストレツの戦い(1272年 - 1278年)」の解説

1270年以降ボレスワフ2世戦力衰え顕在化し、彼は自分の幼い息子により大きな権力残そう動き出した1273年ボレスワフ2世長男ヘンリク5世ヤヴォル(ヤウアー)を公国として与え自身政治の舞台から引退するかに見えた。しかし、1277年ボレスワフ2世は皆を驚かせる行動出たボレスワフ2世ローマ王ルドルフ1世ライバルボヘミア王オタカル2世と他のポーランド諸公との同盟関係壊そう狙っていた)との同盟調印しルドルフ1世要請基づいてオタカル2世同盟者であり自分自身の甥でもあるヘンリク4世ヘンリク3世息子)を誘拐した。この誘拐口実は、1270年ボレスワフ2世末弟であるザルツブルク大司教ヴワディスワフ1270年死んだ時、ヘンリク4世ヴロツワフ3分の1要求したことに対する罰だとされた。ヘンリク4世高貴な囚人としてレグニツァの城に幽閉された。 ヘンリク4世解放するべく、ボヘミア王オタカル2世グウォグフ公ヘンリク3世及びヴィエルコポルスカプシェミスウ2世の3者が連合両軍4月24日にストレツの戦いで激突したボレスワフ2世軍隊連合軍比べかなり小規模であり、戦い始まった時には敗北するかに見えた。しかしボレスワフ2世息子ヘンリク5世予想外奮戦見せ諸公連合軍打ち破った結局、この争い賠償金解決しヘンリク4世は自らの公国領域3分の1にあたるシロダ・シロンスカ(ノイマルクト)をボレスワフ2世譲渡することで解放された。 この戦勝ボレスワフ2世にとって最後成功であり、1278年12月26日31日とも)に58歳(53歳とも)で死去レグニツァドミニコ会修道院埋葬された。遺領は3人の息子ヘンリク5世ボルコ1世ベルナルト分け合ったボレスワフ2世中央集権失敗と弟達の反乱敗北したことにより、シロンスク公国分裂招いてしまった。シロンスク諸公以後分裂内乱繰り返しドイツボヘミアとの結びつき強めた。この結果、後にポーランド王国再興された時、シロンスク諸公ボヘミア臣従ポーランド王国から外れてボヘミアひいてはドイツ領邦化を招いた

※この「ヘンリク4世の誘拐とストレツの戦い(1272年 - 1278年)」の解説は、「ボレスワフ2世ロガトカ」の解説の一部です。
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