ヘンリク3世との戦争とルブシュ譲渡、グウォグフ喪失(1248年 - 1251年)
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「ボレスワフ2世ロガトカ」の記事における「ヘンリク3世との戦争とルブシュ譲渡、グウォグフ喪失(1248年 - 1251年)」の解説
ヘンリク3世とボレスワフ2世は戦争の準備を始めたが、2人とも十分な資金がなかった。そもそもこの時代、領土の分割は非常に一般的な慣行だった。ボレスワフ2世は1242年にアンハルト伯ハインリヒ1世の娘でテューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペの姪にあたるヘートヴィヒと結婚しており、弟との戦争で、妻の親族達とのコネクションを利用して同盟者を見つけようとした。マクデブルク大司教が軍隊を拠出する代償として、ルブシュの半分がマクデブルクを領するブランデンブルクに譲渡された。 だが、このドイツ人との同盟は、弟との戦争においてボレスワフ2世に一時的な優位をもたらしただけであった。1249年、パリでの学業を終えた弟の1人コンラトが突然帰国し、シロンスクに対する自らの相続権を主張したからである。ボレスワフ2世はこの弟に教会に入るよう説得、パッサウの司教になることを提案したが、コンラトは聖職者になるのを拒み、相続権を兄にすげなく断られたこともあって、ヴィエルコポルスカ公プシェミスウ1世兄弟の許に亡命した。直後、コンラトはプシェミスウ1世にすぐ下の妹エルジュビェタを嫁がせ、自らはプシェミスウ1世の妹サロメアと結婚し、二重結婚でプシェミスウ1世との強力な同盟関係を築いた。 そして、最終的な衝突はその2年後の1251年におきた。ヘンリク3世はコンラトの主張を支持、プシェミスウ1世と共同でボレスワフ2世の軍勢を破り、敗北したボレスワフ2世は自身の領土を分割することに同意し、コンラトにグウォグフを与えた。この分割以後、シロンスク公家の嫡系の諸公はレグニツァの小地域を保有するだけになった。
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