ヘンリク5世との戦い
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「ヘンリク3世 (グウォグフ公)」の記事における「ヘンリク5世との戦い」の解説
しかし1年後の1290年6月23日、ヘンリク4世は32歳の若さで急死(毒殺されたとも)、この事件はその後のヘンリク3世の運命に甚大な影響を与えることになった。遺言により、子供の無いヘンリク4世はヘンリク3世を相続人に指名した。ところが、ヴロツワフの騎士と都市民は1か月後の7月中旬、新たな統治者ヘンリク3世を追い出した。代わりに反乱者は、自分たちの統治者にレグニツァ公ヘンリク5世を招いたのである。このヴロツワフにおける反乱の理由はよくわからないが、ヘンリク3世による過酷な統治が決定要因になったようである。何が起きたにせよ、ヘンリク3世はこの事態を受け入れることはなく、さっそくヘンリク5世に対して宣戦布告をした。 ヘンリク3世はヴロツワフにおいて短期間ながら復権を実現させたものの、その後ヘンリク5世に敗北、係争中であったホイヌフ、ボレスワヴィエツ、ゴシチシュフ、ノヴォグロジェツ、シチナヴァ、ヴィンスコ、スィツフ、トシェブニツァ、ミリチュ及びソンドヴェルに対する要求を放棄せざるを得なかった。ただし、間もなくシチナヴァだけは回復した。 この戦争において、両者は素早く自分達を支援してくれる同盟者達を探し始めた。ヘンリク3世はヴェッティン家と同盟し、1291年3月にはブラウンシュヴァイク=リューネブルク公アルブレヒト1世の娘メヒティルドと結婚して同盟を強化した。さらにブランデンブルク=シュテンダル辺境伯オットー4世、ヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世もヘンリク3世の味方に就いた。特に後者とは、プシェミスウ2世がもし男子の相続人のないまま死んだ場合、ヘンリク3世がその領国を継承するという取り決めまで結んだ。一方、敵のヘンリク5世はボヘミア王ヴァーツラフ2世と同盟した。 全面戦争が起こると思われた矢先、1293年11月11日にヘンリク5世はルトカと言う人物に捕らえられ、ヘンリク3世に引き渡された。ヘンリク5世によるヴロツワフ統治はきわめて保守的なもので、貴族の中の一部党派と衝突、この反対派閥の1人であったパコスワフ・ズジェシツァは殺人罪で死刑を言い渡され、パコスワフの息子ルトカは父の仇を取ろうと機会を窺っていたからであった。ヘンリク3世はヘンリク5世を半年近くも鉄籠に入れて監禁、ヘンリク5世のヴロツワフ公位は認めたが、ナムィスウフ、ビェルトゥフ、オレシニツァ、クルチュボルフ、ブィチナ、ヴォウチン、オレスノ、ホイヌフ、ボレスワヴィエツ(ヘンリク4世の領土の約3分の1)の町とそれぞれに付属する要塞、合わせて3万グジヴナの銀も支払い、今後5年間は自分の行う全ての戦争に協力することを約束して、ヘンリク5世を解放した。ヘンリク5世はその後健康の回復しないまま5年後の1296年に死去、弟のヤヴォル公ボルコ1世が幼い子供達の摂政を務めた。
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