反乱の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 01:44 UTC 版)
ジャーナリストのマイケル・ダフィー(英語版)は2006年に次のように書いている。 ラム酒の反乱は、広く誤解を受けたがために歴史上の忘却へと滑り落ちてしまった。独裁者ブライが、ニューサウスウェールズ軍団の士官やマッカーサーのような商人の取引によってもたらされた、ラム酒の莫大な利益に脅威をもたらしたため、失脚させられたというのが一般的な見方である。この見方は、党派同士での口論に過ぎず、道徳の観点から見てほめられたものではない。 しかし、この争いは単なる口論よりももっと深刻である。これの本質は、長きにわたる、政府と個人事業家との権力への争いの到達点であり、植民地の将来性とあるがままの姿との戦いである。初期の総督たちはニューサウスウェールズを、小作農である前科者と、政府発行通貨とによって経営される広範囲な監獄としたがっていた。 ダフィーはさらに、この反乱は、ラム酒については考慮に入れられていなかったと言う。当時ほとんどのものが、この反乱はラム酒に原因があるとは考えなかった。ブライは一時的にラム酒の価格を急落させて、それを敵になすりつけようとしたが、なんら証拠のないままブライは去って行った。 それから多くの歳月が流れ、1855年、イギリス人クエーカー教徒のウィリアム・ホウィット(英語版)がオーストラリアの風俗史を出版した。多くの絶対禁酒者の例にもれず、ホウィットも世間の諸問題はアルコールであると非難するのに熱心だった。ホウィットはブライに味方し、ラム酒の反乱という言葉を作り出し、それ以来この言葉が定着した。 初期オーストラリアの博物学では、マッカーサーの不平は馬鹿げていると一蹴し、エバットの言を引用して、法的には、3つの罪状のうち2つは、治安妨害を含めてマッカーサーにあるとしている 。ダフィーもエバットも、ブライの行ったことは正しいと述べている。ブライは法に則った権威だからである。加えて、投獄された人々、また同様に法廷に脅しをかけた人々は、この権威が持つ意志を認めなかった、これは法的に問題があるとしている。ダフィーは、ジョンストンが裁判のために1月25日に出頭していれば、反乱は起きなかったと言う。
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