反乱の蜂起者
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「グリンドゥールの反乱」の記事における「反乱の蜂起者」の解説
1406年、オワイン・グリンドゥールは国家構想を発表した。彼は議会とウェールズ教会を持つ独立したウェールズ人国家のビジョンを宣言した。北部と南部に1つずつ国立大学を持ち、「ハウエル善王の法」(Laws of Hywel Dda) を尊重するものだった。このときまでに、フランス軍の大半はパリの政局が平和志向へと向いたため、撤退していた。オワインのいわゆる「ペンナルの手紙」(Pennal Letter ) の中で彼はフランス王シャルル6世とローマ教皇 (対立教皇) ベネディクトゥス13世に対して、ウェールズ教会の忠誠の対象をローマからアヴィニョンに移すことを約束していたが、何の効果もなかった。既に時機を逸していた。 反乱が問題に直面する兆候は他にもあった。その年の初め頃にオワインの軍隊は、プス・メリンの戦い (Battle of Pwll Melyn、ウスクの戦いとしても知られる。) (英語版) におけるグロスモント (Grosmont) (英語版) とウスク (Usk) (英語版) での敗北に苦しんだ。その2つの戦いで何が起こったのか知ることは難しいが、おそらくモンマスのヘンリー (ヘンリー王子) か初代シュルーズベリー伯ジョン・タルボット (1453年没) が、リース・ゲシン (Rhys Gethin、1405年没) (英語版) (「浅黒いリース」 (Swarthy Rhys)) とオワインの長男、グリフィズ・アブ・オワイン・グリンドゥール (Gruffudd ab Owain Glyndŵr、1375年-1412年) (英語版) に率いられたウェールズ軍の重要な部隊を破ったようである。これらの戦いの正確な日付は現在でも議論の対象となっているが、戦いの結果、リースはグロスモントで、オワインの兄弟のテューダーはウスクでそれぞれ戦死し、グリフィズが捕えられたことは確かなようである。グリフィズはロンドン塔に送られ、6年後に獄中で死んだ。ヘンリー王はさらにイギリス人が無慈悲な戦略をとることを世間に示した。ウスクのアダムによると、ヘンリー王はウスク近くで起きたプス・メリンの戦いの後、ウスク城の正面に首をはねた300人の囚人を並べた。近くのスランタルナム (Llantarnam) (英語版) シトー会修道院の修道院長ジョン・アプ・ハウエル (John ap Hywel) は、イギリス軍・反乱軍双方の亡くなった人や傷ついた人たちへの聖職者としての務めを果たしたということで、プス・メリンの戦いの最中に殺された。反乱軍にとってより深刻な事態だったのは、イギリス軍がアイルランドからアングルシー島へ上陸したことである。1406年の終わりにアングルシー島での反乱軍の抵抗が正式に終わるまで、翌1年間イギリス軍は次第に反乱軍を押し返すこととなった。 同時にイギリス軍は、異なる2つの戦略を採用した。ヘンリー王子の父は討伐遠征を重視したが、王子はむしろ経済封鎖作戦を採用した。イギリス軍の指揮下にある城を使って、ヘンリーは商取引や武器の供給を遮断し、次第にウェールズを奪還し始めた。1407年にはこの作戦が実を結び始めていた。3月にはフリントシャー州全域の1,000名の男たちが州の司法長官 (Chief Justitiar) の前に現れ、グリンドゥールを支援したことに対する罰金を支払うことに合意した。次第に同様のケースが国内全体で繰り返された。7月にはオズウェストリー (Oswestry) (英語版) とクラン (Clun) (英語版) 周辺のアランデル伯爵領の北東部が返上された。次第に領主たちは降伏し始めた。真夏までにオワインのアベリストウィス城 (Aberystwyth Castle) (英語版) は包囲され、その年の秋には陥落した。1409年にはハーレフ城が陥落した。陥落の直前にフランスへ助けを求める使者が派遣されたが、反応はなかった。グリフィズ・ヤングが調整のためにスコットランドに送られたが何も得られなかった。モーティマーは最後の戦いで戦死し、オワインの妻マーガレットは2人の娘(モーティマーの妻カトリンを含む)と3人の孫娘(モーティマーの娘)と共に捕えられ、ロンドン塔に投獄された。彼らは皆1415年までには獄中で死んだ。 オワインは自由のままだったが、彼は今や追われるゲリラのリーダーだった。反乱は続いていた。彼はシュロップシャー奥深くでの最後の戦いのために、兵士を準備した。彼に極めて忠実な数多くの司令官たちはいたが、それはもう絶望的な反乱だったのかもしれない。カーディガン (Cardigan) (英語版) のリース・ズー (Rhys Ddu) (「黒いリース」(Black Rhys)) はオワインのもっとも忠実な司令官の一人だったが、捕えられ死刑執行のためにロンドン塔に送られた。その時代の年代記によると、リース・ズーは「編み垣 (hurdle) の上に寝せられ街を通ってタイバーン に連れていかれて、そこで絞首刑となった。彼の頭はひどく殴られ、胴体は4つに分けられて4つの街に送られた。彼の頭はロンドン橋にさらされた。」リース・アプ・テューダー (Rhys ap Tudur、1412年没) (英語版) もまた首をはねられ、その頭部はチェスターの街でさらされたが、それは間違いなく反乱軍の意欲をそぐためであった。 1412年にオワインはブレコン (Brecon) (英語版) で待ち伏せされ捕らえられたが、その後反乱軍により奪還された。捕らえたのはウェールズ人のヘンリー王支持者のリーダーだったダヴィズ・ガム (Dafydd Gam、1380年-1415年) (英語版) (「歪んだデヴィッド」(Crooked David)) であった。この頃が反乱の最後の輝きだった。これを最後にオワインは、彼の兵士たちから生きている姿を目撃されていない。1414年位まで、ヘレフォードシャーのロラード派のリーダーだったジョン・オールドカースル (1378年-1417年) はオワインと連絡を取り、北部や南部の主要な城に支援物資を送っていたらしい。 その後状況は変化した。ヘンリー4世が1413年に死去し、その息子のヘンリー5世はウェールズに対してより融和的な対応をした。反乱の主要な指導者たちや彼の父の治世の頃の他の反対派たちに対して、恩赦が認められた。象徴的で敬虔な行動として、リチャード2世の遺体がウェストミンスター寺院に埋葬された:428。1415年ヘンリー5世は、フランスとの戦争の準備として、オワインへの恩赦を認めた。ヘンリー王はオワインの息子マレディッズ・アブ・オワイン・グリンドゥール (Maredudd ab Owain Glyndŵr) (英語版) を通じて交渉していたようだが、何の反応もなかった。1416年にはマレディッズ自身の恩赦が認められたが、彼はそれを拒否した。おそらく彼の父オワインはまだ生きていて、彼は父が生きている間は自身の恩赦を受け入れることは不本意だった。結局1421年、マレディッズはオワインの死を示唆し、恩赦を受け入れた。それ以降もオワインの義理の息子サイリブ・アプ・リース (Phylib ap Rhys) のリーダーシップの下、数少ない闘士達が戦いを続けたことは、例えばウェールズの吟遊詩人スラウゼン (Llawdden、1440年-1480年) (英語版) の詩の中で示唆されている。 一般的には1421年のマレディッズへの恩赦が、反乱の正式な終了と、イギリスによるウェールズ統治の再確立の証であると考えられている:293。
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