反乱の鎮圧と反ジャコバンへの転身
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「ルイ=マリ・スタニスラス・フレロン」の記事における「反乱の鎮圧と反ジャコバンへの転身」の解説
9月になると、フレロンはセーヌ行政区選出から選出されて国民公会の議員となり、ルイ16世の処刑に賛成票を投じる。1793年から1794年の間、ポール・バラスと共に派遣議員としてプロヴァンス、マルセイユ、そしてトゥーロンへと派遣される。彼らは、トゥーロンの反乱の様な出来事の後、議会の権威を盾にこれら反革命分子による反乱を徹底的に鎮圧した。しかし、この反乱の鎮圧で過度にやりすぎてしまったことから、逆に当時の最高権力者・ロベスピエールの反感を買ってしまうことになる。 ロベスピエールからの糾弾を恐れた彼は、バラスと共にフーシェの反ロベスピエールの陰謀に加担し、テルミドール9日のクーデターに参加する。クーデタ後にジャコバン派が一掃されると、クーデタ以前は彼自身ジャコバン派の議員だったにもかかわらず、『L'Orateur du Peuple』は今やアンチ・ジャコバン派の代弁者となった。 さらに、革命裁判所の検事であったフーキエ・タンヴィルや、カリエら生き残ったジャコバン派たちの告発にも関っている。
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