反乱の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 14:12 UTC 版)
3月18日プリンスアルバートで北西騎馬警察(王立カナダ騎馬警察の前身)の守備隊が増強されつつあることが知られるようになった。事実はアレクシス・アンドレ神父や守備隊長 L.N.F. クロージャーの警告により、わずか100名ほどが追加配備されただけであったが、500名の重武装兵が準州にやってくるとの噂がたちまちのうちに流布された。メティ側の忍耐も限界となり、リエルに追随する者たちは武器を携え人質をとり、Batoche とプリンス・アルバート間の電信線を断った。 3月19日には Batoche においてまたも臨時政府の樹立宣言がなされ、リエルが政治的そして精神的な面での指導者となり、デュモンが軍事面の指揮を執った。リエルは "exovedate" (「群れから去った者」という意味の新造語)と呼ばれる評議会を作り、パウンドメーカーやビッグベアーらクリー族長の支持を取りつけるため代表者を送り込んだ。 3月21日、リエルの密使は守備隊のクロージャー隊長にカールトン砦を明け渡すよう要求したが、拒絶された。事態は風雲急を告げ、3月23日副総督デュードニーはマクドナルド首相に軍事介入が必要となるかもしれない旨の通信を送った。3月26日にダックレーク近郊を偵察中のガブリエル・デュモン率いる一隊は思いがけずカールトン砦からの守備隊を発見した。こうしてダックレークの戦いが起こり守備隊が敗走した知らせが届くと先住民たちは一斉に蜂起した。戦端は開かれ、ノースウェストの反乱が本格的に始まった。 リエルは、連邦政府が遠く離れたノースウェスト準州で起こったもう一つの反乱に効果的な対応を行うことはできず、故に政治的な交渉を求めてくるであろうことを期待していた。これは基本的には1870年代における反乱において大変効果のあった戦略と同じものであった。最初の反乱当時には、リエルが指揮権を掌握してから3ヶ月ほど経過してやっと先発隊が到着するといった状況であった。しかし、リエルは生まれたばかりのカナダ太平洋鉄道の重要性を完全に見落としていた。鉄道には大きな未敷設箇所があったが、それでも連邦の正規兵及び民兵の先発隊は、フレデリック・ミドルトン少将の統率の下、リエルの請願書提出からわずか2週間も経過しないうちにダックレークに到着した。 正面から直接対決したのでは連邦軍には勝てないと見たデュモンは、ゲリラ戦を長期的に展開することによって交渉に持ち込もうとした。デュモンのこの方針に沿った作戦は4月24日のフィッシュクリークの戦いにおいてささやかな成果を見せた。しかし、リエルは彼の「神の街」を防衛するために Batoche に軍事力を集中することに固執した。5月9日から12日まで行われた Batoche の戦いの結果は火を見るより明らかで、5月15日に髪をぼさぼさにしたリエルは、連邦軍の前に降伏した。また、ビッグベアーの率いる一隊は6月3日のルーンレークの戦いまではどうにか持ちこたえたものの、反乱した達はほとんどが降伏か逃亡し、全体で見ればメティにとっても先住民にとっても惨憺たる失敗に終わった。
※この「反乱の開始」の解説は、「ルイ・リエル」の解説の一部です。
「反乱の開始」を含む「ルイ・リエル」の記事については、「ルイ・リエル」の概要を参照ください。
反乱の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 09:47 UTC 版)
「グリンドゥールの反乱」の記事における「反乱の開始」の解説
1400年9月16日、オワインは行動を開始し、彼の支持者のグループはオワインのプリンス・オブ・ウェールズ (ウェールズの君主) への即位を宣言した。グループにはオワインの長男や義兄弟達、そしてディーン・オブ・セント・アサフ (Dean of St Asaph (英語版) 、聖職者の役職) が含まれていた。これはそれ自体革命的な声明であった。オワインの支持者達は北東ウェールズで急速に増えていった。9月18日、ドゥ・グレイの本拠地、リシン城は攻撃を受けほとんど破壊された。その後すぐに、デンビー (Denbigh) (英語版) 、リズラン (Rhuddlan) (英語版) 、フリント (Flint) (英語版) 、ハーデン (Hawarden) (英語版) 、そしてホルト (Holt) (英語版) へと戦火は広がった。9月22日、オズウェストリー (Oswestry) (英語版) の街はオワインの襲撃でひどく損傷を受けていた。9月23日までオワインはポウィス城 (Powis Castle) (英語版) を攻撃しウェルシュプール (Welshpool) (英語版) の街を制圧しながら南に進軍した:81。 同じ頃、テューダー兄弟はアングルシー島からイギリスに対してゲリラ戦を開始した。ペンミニッドのテューダー家 (Tudors of Penmynydd) (英語版) はリチャード2世と極めて親密にしていたアングルシー島の一族であった。グィリム・アプ・テューダー (Gwilym ap Tudur、1413年没) (英語版) とリース・アプ・テューダー (Rhys ap Tudur、1412年没) (英語版) は共に、フランスの侵攻に対抗して北ウェールズを守るために1396年に蜂起した兵士達の軍事的リーダーであった。彼らは1398年のリチャード2世のアイルランド遠征に出兵していた。オワインが反乱を起こしたとき、リース、グィリム、それと彼らの3番目の兄弟マレディッズ・アプ・テューダー (Maredudd ap Tudur、1406年没) (英語版) は公然と忠誠を誓った。彼らはオワインの母方のいとこだった:19。 ヘンリー4世はスコットランド遠征からの帰途についており、軍隊をウェールズに向けた。9月26日にはシュルーズベリーでウェールズに侵攻する準備ができていた。電撃作戦 (lightning campaign) とでもいうべき早さで、ヘンリーは彼の軍隊に北ウェールズを包囲させた。ヘンリーは悪天候とウェールズ人ゲリラの攻撃に絶えず悩まされた。アングルシー島でヘンリーは、村や修道院を燃やし、島の人々を苦しめた。その中にはバンガー近くにあるスランヴァースフランシスコ会修道院 (Llanfaes Friary) (英語版) も含まれていた:21。これはテューダー家代々の埋葬場所であった:17。リース・アプ・テューダーは兵士たちを率いて国王軍をロス・ヴァウル (Rhos Fawr) (英語版) で待ち伏せした。戦闘の後、国王軍は安全なビューマリス城に戻った:21。10月15日、ヘンリーはシュルーズベリーに戻りそこで数人の囚人を釈放し、その2日後ウスターでは自らの成果を示すためにわずかな兵だけと行動を共にした。 1401年、反乱は広がり始めた。ウェールズ北部および中央部の大半はオワインの支配下となった。北部全体のイギリス人の街・城・荘園が複数回の攻撃を受けたことが記録されている。ウェールズ南部のブレコン (Brecon) (英語版) やグエント (Gwent) (英語版) でさえ強盗行為や無法状態が報告され始めた。ヘンリー王は秩序を回復するために、力強いノーサンバランド伯の息子、ヘンリー・" ホットスパー"・パーシー (1364年-1403年) を任用した。また3月にはオワインと彼のいとこ、リースとグィリムを除く者たちへ全面的な恩赦が行われた:22。 国内の大半の者は通常の全ての納税に合意していたが、テューダー兄弟は彼らにのしかかる過酷な脅威を追い払うには、交渉の材料が必要なことを知っていた。彼らはエドワード1世の偉大な城コンウィ城を占領することに決めた。コンウィ城にはちょうど15名の重騎兵 (men-at-arms) (英語版) と60名の弓兵が駐屯しており、彼らはよく訓練されていて、有事の際には海から簡単に増員することができた。それに対してテューダー兄弟にはわずか40名の兵士しかいなかった。4月1日の聖金曜日、ウスクのアダム (1352年–1430年) の年代記によると、「いつもの仕事をするために来たふりをした」大工が城門に現れたとき、城内の小さな教会には5人の駐屯兵しかおらず、それが全てだった。中に入るとウェールズ人の大工は2人の警備員を攻撃し、反乱者たちが中に入れるように門を開けた。ホットスパーが重騎兵120名、弓兵300名とともにデンビー (Denbigh) (英語版) から到着したとき、彼は内部に強固な陣地を築くよりはるかに大きな労力が必要で、また交渉を余儀なくされることを知った。パーシーの妥協は恩赦の決定に至ったが、4月20日、ヘンリー王はそれを覆した。グィリム・アプ・テューダーが直接ヘンリー王との書簡のやり取りを開始して、ようやく6月24日に合意が成立した:22。 オワインはまた、5月か6月にプリンリモン (Plynlimon) (英語版) 近くのハズゲン山 (Mynydd Hyddgen) (英語版) で平野部における最初の大きな勝利を挙げた。オワインと彼の数百の軍隊は、ペンブルックシャー (イングランドとウェールズの境界部分) からの約1,500名のイギリス人およびフラマン人の入植者たちが休息をとっていたハズゲン渓谷の底の部分で野営をしていた。オワインは彼の軍隊を立て直し攻撃をして200名を殺した。ヘンリー王にとって、別の討伐計画を立てる上で状況は極めて深刻だった。この時は、10月にヘンリー王はウェールズ中央部を攻撃していた。彼の軍隊はシュルーズベリー、ヘレフォード城 (Hereford Castle) (英語版) からポーイスを通って、ストレイタ・フロリダ修道院 (Strata Florida Abbey) (英語版) を目指して進軍した。シトー修道会はオワインに同情的であることが知られており、ヘンリー王は彼らの自らに対する忠誠心を思い起こさせ、反乱がこれ以上南に広がるのを防ぐことを企てた。オワインの軍隊による数多くの妨害を受けた後、ヘンリー王はストレイタ・フロリダに到着した。(修道院に着いたものの) ヘンリーは慈悲深い気分ではなかった。彼の軍隊は修道院の一部を破壊し、彼に反抗して武装する疑いのある僧侶を殺した。しかしヘンリー王は大多数のオワインの軍隊を服従させることはできなかった。オワインの軍隊はヘンリー王に抵抗し、王の誘いには乗らずにヒットエンドラン戦法を取って正面から戦うことをしなかった。ヘンリー王の軍隊は撤退を余儀なくされた。1401年10月28日、彼らの努力はほとんど報われることなく、王の軍隊はウースターに到着した:109。その年は、1401年11月2日のオワインによるカーナーヴォン城への籠城を巡っての消耗戦、タトヒルの戦い (Battle of Tuthill) (英語版) とともに終わりを迎えた。 イギリス人たちは仮に反乱が広がった場合、不満を抱いていた、退位したもののその生存の噂が広範囲に広まっていたリチャード王の支持者たちを、必然的にひきつけるであろうと考えていた。イギリス人たちはチェシャーでの反乱の可能性を憂慮し、北部ウェールズからのニュースを益々気にかけていた。ホットスパーはヘンリー王から十分な支援を受けていないことと、王の抑圧的な方針が反乱を誘発しているだけであることに不満を持っていた。彼は交渉と妥協により、オワインに反乱を止めさせるよう説得できると主張した。実際早ければ1401年にホットスパーは、オワインや他の反乱軍のリーダーたちと和解交渉に参加させるための秘密交渉を行ったのかもしれない。しかし、中心的なランカスターの反乱支持者たちには、その可能性はなかった。彼らはウェールズにおけるイギリス人の優位性を確立するために定められた反ウェールズ法 (1402年反ウェールズ刑法) (Penal Laws against Wales 1402) (英語版) に反対していた。この法律は、ウェールズ人がイングランドで土地を買うことやウェールズで上級公職に就くこと、武装することや、城あるいは防御された建物を持つことを禁止していた。またウェールズ人の子供たちの教育や商売人への弟子入りは認められず、ウェールズ人から告訴されたイギリス人は誰も有罪判決を受けず、イギリス人女性と結婚したウェールズ人は厳しく罰せられ、ウェールズ人女性と結婚したイギリス人は選挙権がはく奪され、また全ての公的な集会が禁止される、というものであった:360。これらの法律は旗色を鮮明にしていない人々に対して、イギリス人は全てのウェールズ人に対して同様の疑念を抱いているというメッセージを送った。イギリス人の社会の中でそのキャリアを積み上げようとしてきた多くのウェールズ人は、今やオワインとヘンリーとの妥協点は消えたかのように、反乱に巻き込まれたと感じた。 同じ1402年の1月の終わりか2月の初め、オワインは彼の宿敵第3代グレイ・ドゥ・リシンバロン、レジナルド・グレイ (Reginald Grey, 3rd Baron Grey de Ruthyn、1362年-1440年) (英語版) をリシン (Ruthin) (英語版) で待ち伏せして捕獲した:115。彼はヘンリー王から十分な身代金を受け取るまで、1年間は捕えておくつもりだった。1402年7月、オワインの軍隊は中央ウェールズのブリン・グラス (Bryn Glas) (英語版) で、マーチ伯エドマンド・モーティマーの同名の叔父エドマンド・モーティマー (Edmund Mortimer、1376年-1409年) 率いる軍隊と遭遇した。モーティマーの軍隊は惨敗し、モーティマーは捕えられた。オワインの軍隊に従軍していたウェールズ人の女性が、おそらくその前年にあったイギリス軍による強奪や暴行の復讐として、傷ついたイギリス兵を殺し死体の胴体をバラバラにしたことが報告されている。オワインは莫大な身代金と引き換えにモーティマーの釈放を申し出たが、ヘンリー4世は支払いを拒否した。モーティマーは彼の迅速な釈放が選択肢にないことについて、イギリス王に対して大きな不満を抱いていたといえる。モーティマーはオワインの関係者と協議した結果、オワインの娘の一人、カトリン (Catrin ferch Owain Glyndŵr、1413年没) (英語版) と結婚した。 オワイン勢を支援したフランス人やブルトン人についての言及が初めて聞かれたのも、同じ1402年であった。フランス人は確かに、イギリスと戦うための基地としてスコットランドを使ってきたように、ウェールズを使うことを望んでいた。フランスの私掠船はアイリッシュ海でイギリス船への攻撃を始めており、ウェールズに対し武器その他の装備等を提供していた。フランス人やブルトン人の海賊もまた、オワインの攻撃に協力的であった。
※この「反乱の開始」の解説は、「グリンドゥールの反乱」の解説の一部です。
「反乱の開始」を含む「グリンドゥールの反乱」の記事については、「グリンドゥールの反乱」の概要を参照ください。
反乱の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 19:15 UTC 版)
8月、侯景はついに兵を発して反乱を起こし、馬頭や木柵を攻めて、太守の劉神茂や戍主の曹璆らを捕らえた。武帝は郢州刺史の鄱陽王蕭範を南道都督とし、北徐州刺史の封山侯蕭正表を北道都督とし、司州刺史の柳仲礼を西道都督とし、通直散騎常侍の裴之高を東道都督として、ともに侯景を討つべく、歴陽から渡河させた。さらに開府儀同三司・丹陽尹の邵陵王蕭綸に節を持たせて、諸軍を総督させた。 10月、侯景はその中軍の王顕貴を寿春城にとどめて守らせ、軍を出して合肥に向かわせるふりをし、実際には譙州を襲撃した。助防の董紹先が開城して侯景に降ったため、譙州刺史の豊城侯蕭泰が侯景に捕らえられた。武帝がこのことを聞くと、太子家令の王質に水軍を率いさせて長江を巡回警備させた。侯景が歴陽に進攻してくると、歴陽郡太守の荘鉄が弟の荘均に命じて侯景の陣営を夜襲させたが敗れ、荘均は戦没し、荘鉄もまた侯景に降った。 蕭正徳は先だって大船数十艘を長江に派遣し、荻を載せると称して、侯景の兵を渡らせる準備をしていた。侯景は京口に到着して、長江を渡るにあたり、王質の襲撃を警戒していた。まもなく王質がゆえなく撤退したとの知らせが届いたが、侯景はなおも信じず、ひそかに偵察を派遣した。侯景は偵察者に「王質がもし撤退したのであれば、江東の樹枝を折って印とすべし」と言い含めておいた。偵察者が言ったとおりの返事をしたので、侯景は「わが事はうまくいきそうだ」と大喜びした。采石から馬数百匹、兵千人で長江を渡ると、建康の朝廷の不意を突いた。侯景は兵を分けて姑孰を襲い、淮南郡太守の文成侯蕭寧を捕らえ、慈湖に達した。武帝の命により揚州刺史の宣城王蕭大器が都督城内諸軍事となり、都官尚書の羊侃が軍師将軍としてこれを補佐した。南浦侯蕭推が東府城を守り、西豊公蕭大春が石頭城を守り、軽車長史の謝禧が白下城を守った。 侯景が朱雀航に達すると、蕭正徳は先に丹陽郡に駐屯しており、部下を率いて侯景と合流した。ときに建康県令の庾信が1000人あまりの兵を率いて航北に駐屯していた。庾信は侯景の兵が朱雀航にやってきたと見るや、浮き橋の撤去を命じたものの、浮き舟一隻を取り除き始めたところで、軍を捨てて南塘に逃げ出した。侯景の遊軍が朱雀航の浮き橋を復旧させて侯景本隊を渡させた。皇太子蕭綱は乗馬を王質に授けて、精兵3000を配し、庾信を救援させようとした。王質は領軍府にいたって、反乱軍と遭遇すると、戦う前に逃亡した。侯景は勝利に乗じて城下に迫った。西豊公蕭大春は石頭城を捨てて逃走し、侯景はその儀同の于子悦を派遣して石頭城を占拠させた。謝禧もまた白下城を放棄して逃亡した。侯景はこのためあらゆる方向から建康城を攻撃できるようになり、たいまつの火で大司馬門・東華門・西華門を焼いた。城内の兵士たちは門楼を破壊し、水をかけてどうにか火を消し止めた。反乱軍が東掖門を切り破って開こうとすると、羊侃が門扇を穿って、数人を刺殺したため、反乱軍は撤退した。また反乱軍は東宮の城壁を登って、城内に弓を射かけた。これに対処するため、皇太子蕭綱が人を募って夜間に東宮を焼かせると、東宮台殿は灰燼と化した。さらに侯景は城西の馬厩・士林館・太府寺を焼いた。翌日、侯景は木驢数百を作らせて城を攻めようとしたが、城の上から石が投げ打たれ、できあがった所からみな破壊された。
※この「反乱の開始」の解説は、「侯景の乱」の解説の一部です。
「反乱の開始」を含む「侯景の乱」の記事については、「侯景の乱」の概要を参照ください。
- 反乱の開始のページへのリンク