柳仲礼とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 柳仲礼の意味・解説 

柳仲礼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/28 01:07 UTC 版)

柳 仲礼(柳仲禮、りゅう ちゅうれい、生没年不詳)は、南朝梁軍人本貫河東郡解県

生涯

梁の太子詹事の柳津(柳慶遠の子)の子として生まれた。武勇と膂力を兼ね備え、若くして胆気があり、身長は8尺で、眉目はまばらであった。著作佐郎を初任とし、しばらくして電威将軍の号を受け、陽泉県侯に封じられた。中大通年間、西魏の将の賀抜勝が樊と鄧に侵攻してくると、仲礼は出撃してこれを破った。黄門郎に任じられ、しばらくして司州刺史に転じた。武帝は仲礼の顔を見て、思うところあって画家にその肖像を描かせた。

太清2年(548年)、侯景の反乱の意図を察知して3万の兵で侯景を討つことを求めたが、朝廷に許可されなかった。8月、侯景の乱が起きると、仲礼は西道都督となって、侯景討伐にあたることとなった。12月、建康の援軍として長江を渡り、朱雀航の南に布陣した。太清3年(549年)1月、韋粲を救援するために青塘に向かったが、韋粲はすでに敗死しており、仲礼は侯景の部将の支伯仁に斬られて重傷を負った。3月、台城が陥落すると、仲礼は弟の柳敬礼羊鴉仁王僧弁趙伯超らとともに侯景に降伏した。

大宝元年(550年)、西魏の楊忠が岳陽王蕭詧と合流した。仲礼は湘東王蕭繹の命を受けて雍州刺史となり、襄陽を襲撃した。南陽を包囲されている杜岸が救援を求めてきたため、仲礼は別将の夏侯強を司州刺史として義陽を守らせ、自らは兵を率いて安陸に向かった。司馬の康昭を派遣して西魏の竟陵郡太守の孫暠を攻撃させ、孫暠を降伏させた。仲礼は部将の王叔孫を竟陵郡太守とし、副軍の馬岫を安陸郡太守とした。自ら軽兵を率いて襄陽に向かおうとしたところ、漴頭で楊忠と戦って敗れ、弟の柳子礼とともに捕えられて長安に送られた。

伝記資料

  • 梁書』巻43 列伝第37
  • 南史』巻38 列伝第28



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「柳仲礼」の関連用語

柳仲礼のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



柳仲礼のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの柳仲礼 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS