柳敬礼とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 柳敬礼の意味・解説 

柳敬礼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/22 08:24 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

柳 敬礼(柳敬禮、りゅう けいれい、生年不明 - 550年)は、南朝梁軍人本貫河東郡解県

経歴

南朝梁の太子詹事の柳津(柳慶遠の子)の子として生まれた。兄の柳仲礼とともに若くして勇名で知られた。著作佐郎を初任とし、しばらくして扶風郡太守に転じた。548年太清2年)、侯景の乱が起きて侯景軍が長江を渡ると、敬礼は3000の兵を率いて建康の救援に向かった。青渓埭に拠って侯景と連戦し、つねに先頭に立って敵陣を陥れたため、その威名は高まった。549年(太清3年)、台城が陥落すると、敬礼は兄の柳仲礼とともに侯景に降伏した。

侯景は柳仲礼を長江上流の経略に派遣し、敬礼を人質として留めて、護軍とした。侯景が後渚で柳仲礼を送る餞別の宴を張ったとき、敬礼はひそかに「侯景がいまやって来たならば、敬礼がこれを抱えて抑え込みますので、兄者は佩刀を抜いて、侯景を斬り殺してください。敬礼は死んでも恨みはありません」と兄に伝えた。酒が進んで、敬礼が柳仲礼に目配せしたが、柳仲礼は侯景の護衛が厳重だったため、あえて動こうとせず、殺害計画は実行されなかった。

550年大宝元年)10月、侯景が晋熙郡に赴くと、敬礼は南康王蕭会理とともに建康を掌握しようと計画した。その計画は建安侯蕭賁(蕭宏の子の蕭正立の子)に察知されて、侯景に伝えられ、敬礼は殺害された。

伝記資料

  • 梁書』巻43 列伝第37
  • 南史』巻38 列伝第28



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「柳敬礼」の関連用語

柳敬礼のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



柳敬礼のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの柳敬礼 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS