建康の陥落と武帝の死とは? わかりやすく解説

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建康の陥落と武帝の死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 19:15 UTC 版)

侯景の乱」の記事における「建康の陥落と武帝の死」の解説

3月1日朝、城内侯景盟約違えたとして、烽火上げて鼓を打ち騒がし羊鴉仁柳敬礼鄱陽世子嗣らが東府城の北に進軍した。かれらが柵塁を立てないうちに、侯景部将宋子仙襲撃を受け、官軍敗れ秦淮河追い落とされ死者数千人に及んだ討ち取られ首級城下送られ見せしめにされた。 侯景は再び于子悦を派遣して講和願い出た御史中丞沈浚侯景のもとに派遣されやってくると、侯景立ち去る意志のないことを強く責めた侯景激怒して即座に石闕の前でせき止めていた流し込み昼夜休まず四方から城を攻め立てたので、3月丁卯建康はついに陥落した侯景入城すると武帝会見したが、武帝態度堂々としていたのに対して侯景萎縮してどもってしまった。武帝が「かつて長江渡りしとき、幾人ありや」と訊ねると、侯景は「千人」と答えた武帝がまた「台城囲みしとき、幾人ありや」と訊ねると、侯景は「十万」と答えた武帝が「いま幾人ありや」と訊ねると、侯景は「率土のうちわが有にあらざるはなし」と答えた侯景城内乗輿服飾趣味文物、さらに後宮の嬪妾たちをことごとく略奪した王侯朝士たちを収監して永福省送り武帝皇太子侍衛解任した。王偉には武徳殿を守らせ、于子悦には太極東堂駐屯させた。武帝の詔といつわって天下大赦し、自らは侍中・使持節大丞相・河南王のまま、大都督中外諸軍事・録尚書事となった城中遺体だらけで埋葬の暇もないほどであった侯景葬儀済んでいない遺体や、死にかけでまだ息絶えていない者を集めて全て焼かせたため、その臭気十数里に及んだ尚書外兵郎の正が病重く反乱軍引き出され焼かれると、火中輾転として久しくして息絶えた建康救援集まっていた諸軍それぞれ撤退していった。侯景蕭正徳降格させて侍中大司馬とし、百官をみなその職に復帰させた。 侯景董紹先に広陵襲撃させると、南兗州刺史南康嗣王蕭会理広陵をもって降伏した侯景董紹先を南兗州刺史とした。 かつて北兗州刺史定襄蕭祗湘潭蕭退、および前潼州刺史の郭がともに起兵して、建康救援に赴こうとしていた。建康陥落する及んで、郭淮陰をもって侯景帰順しようと図った蕭祗らはこれを止めることができず、ふたりはそろって東魏亡命した侯景弄璋を北兗州刺史としたが、州民が兵を発してこれをはばんだ。侯景は廂公の丘子英と直閤将軍の羊海に兵を与えて弄璋援軍に向かわせたが、羊海が丘子英を斬り、その軍を率いて東魏降ったので、東魏淮陰占拠した侯景が儀同の于子悦や張大黒に兵を率いさせ呉郡入らせると、呉郡太守袁君正がこれを迎えて降伏した。于子悦らは呉郡多く物資徴発し、子女略奪し人民をいじめ抜いたので、呉郡人々憤激して、おのおのが城柵立てて抵抗した。 この月、侯景西州城に移駐した。儀同の任約南道行台とし、姑孰派遣して駐屯させた。 5月丙辰武帝文徳殿で死去した武帝建康陥落以来食事制限されており、憂憤のうちに病にかかって死去したのである

※この「建康の陥落と武帝の死」の解説は、「侯景の乱」の解説の一部です。
「建康の陥落と武帝の死」を含む「侯景の乱」の記事については、「侯景の乱」の概要を参照ください。

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