建康の陥落と武帝の死
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3月1日朝、城内は侯景が盟約を違えたとして、烽火を上げて鼓を打ち騒がし、羊鴉仁・柳敬礼・鄱陽世子蕭嗣らが東府城の北に進軍した。かれらが柵塁を立てないうちに、侯景の部将の宋子仙の襲撃を受け、官軍は敗れ、秦淮河に追い落とされた死者は数千人に及んだ。討ち取られた首級は城下に送られて見せしめにされた。 侯景は再び于子悦を派遣して、講和を願い出た。御史中丞の沈浚が侯景のもとに派遣されてやってくると、侯景に立ち去る意志のないことを強く責めた。侯景は激怒して、即座に石闕の前でせき止めていた水を流し込み、昼夜休まず四方から城を攻め立てたので、3月丁卯、建康はついに陥落した。 侯景は入城すると武帝と会見したが、武帝の態度が堂々としていたのに対して、侯景は萎縮してどもってしまった。武帝が「かつて長江を渡りしとき、幾人ありや」と訊ねると、侯景は「千人」と答えた。武帝がまた「台城を囲みしとき、幾人ありや」と訊ねると、侯景は「十万」と答えた。武帝が「いま幾人ありや」と訊ねると、侯景は「率土のうちわが有にあらざるはなし」と答えた。 侯景は城内の乗輿や服飾や趣味の文物、さらに後宮の嬪妾たちをことごとく略奪した。王侯や朝士たちを収監して永福省に送り、武帝と皇太子の侍衛を解任した。王偉には武徳殿を守らせ、于子悦には太極東堂に駐屯させた。武帝の詔といつわって天下に大赦し、自らは侍中・使持節・大丞相・河南王のまま、大都督・中外諸軍事・録尚書事となった。城中は遺体だらけで埋葬の暇もないほどであった。侯景は葬儀の済んでいない遺体や、死にかけでまだ息絶えていない者を集めて全て焼かせたため、その臭気は十数里に及んだ。尚書外兵郎の鮑正が病重く、反乱軍に引き出されて焼かれると、火中を輾転として久しくして息絶えた。建康救援に集まっていた諸軍はそれぞれ撤退していった。侯景は蕭正徳を降格させて侍中・大司馬とし、梁の百官をみなその職に復帰させた。 侯景は董紹先に広陵を襲撃させると、南兗州刺史の南康嗣王蕭会理が広陵城をもって降伏した。侯景は董紹先を南兗州刺史とした。 かつて北兗州刺史の定襄侯蕭祗と湘潭侯蕭退、および前潼州刺史の郭鳳がともに起兵して、建康救援に赴こうとしていた。建康が陥落するに及んで、郭鳳は淮陰をもって侯景に帰順しようと図った。蕭祗らはこれを止めることができず、ふたりはそろって東魏に亡命した。侯景は蕭弄璋を北兗州刺史としたが、州民が兵を発してこれをはばんだ。侯景は廂公の丘子英と直閤将軍の羊海に兵を与えて蕭弄璋の援軍に向かわせたが、羊海が丘子英を斬り、その軍を率いて東魏に降ったので、東魏が淮陰を占拠した。 侯景が儀同の于子悦や張大黒に兵を率いさせ呉郡に入らせると、呉郡太守の袁君正がこれを迎えて降伏した。于子悦らは呉郡で多くの物資を徴発し、子女を略奪し、人民をいじめ抜いたので、呉郡の人々は憤激して、おのおのが城柵を立てて抵抗した。 この月、侯景は西州城に移駐した。儀同の任約を南道行台とし、姑孰に派遣して駐屯させた。 5月丙辰、武帝が文徳殿で死去した。武帝は建康陥落以来、食事を制限されており、憂憤のうちに病にかかって死去したものである。
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