建康の包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 19:15 UTC 版)
侯景は建康を攻め落とすことができず、損耗も多くなったため、攻撃を中止し、長囲を築いて内外を遮断し、中領軍朱异・太子右衛率陸験・少府卿徐驎・制局監周石珍らの処刑要求を掲げた。いっぽう建康に籠城した官軍は城外に矢文を射かけさせ、その矢文には「侯景の首を斬ることができた者には、侯景の官位を授け、合わせて銭1億万と布絹おのおの万匹と女楽2部を与える」とあった。 11月、侯景は蕭正徳を帝に擁立し、儀賢堂で即位させた。年号を正平と改めた。侯景は自ら相国・天柱将軍となり、蕭正徳の娘を妻に迎えた。 侯景はさらに東府城を攻撃し、百尺の楼車を設けて、城のひめがきを吊り上げて落とすと、東府城は陥落した。侯景はその儀同の盧暉略に数千人を率いさせ、長刀を持って城門を挟んで配置させた。東府城内の文武の者たちがことごとく追い立てられて裸身で城を出されると、反乱兵たちはかわるがわるこれを殺した。死者は2000人あまりに及び、南浦侯蕭推はこの日に殺害された。侯景は蕭正徳の子の蕭見理や儀同の盧暉略に東府城を守らせた。 侯景は建康城の東西に城内を見下ろせる土山を築いた。城内もまた対抗して、王公以下がみな土を背負い、ふたつの山を築いた。当初、侯景は建康平定を容易なものと信じて、民衆の財産を奪わなかった。しかし建康攻囲が長引き、官軍の援軍の集結を恐れるようになると、兵士たちにほしいままに略奪させるようになり、また子女や妻妾を軍営に引き入れるようになった。土山を築くにあたって、侯景は貴賤を問わず民衆を動員し、殴打や鞭打ちを加えて昼夜休まず働かせた。侯景の儀同の范桃棒がひそかに使者を派遣して官軍への投降を願い出たが、事が漏れて殺害された。 ここにいたって、邵陵王蕭綸が西豊公蕭大春・新塗将軍永安侯蕭確・超武将軍南安郷侯蕭駿・前譙州刺史趙伯超・武州刺史蕭弄璋・歩兵校尉尹思合らを率い、3万の軍勢で京口から出立し、直進して鐘山に拠った。侯景は1万人あまりを分遣して蕭綸をはばもうとしたが、蕭綸はこれを撃破して、1000人あまりを斬首した。侯景は再び覆舟山の北に布陣した。蕭綸もまた陣をならべて待ったが、侯景は進まず、両軍にらみ合いの態勢となった。日暮れになって、侯景が軍を返そうとしたところ、南安侯蕭駿が数十騎を率いて挑んできたため、侯景は軍を返して戦い、蕭駿を退却させた。このとき趙伯超の陣が玄武湖の北にあったが、蕭駿の急を見ても赴かず、軍を率いて先に逃走したため、蕭綸の軍は総崩れとなった。蕭綸は京口に逃れた。反乱軍は輜重や兵器を鹵獲し、数百人を斬首し、千人あまりを生け捕りにした。侯景は西豊公蕭大春や蕭綸の司馬の荘丘恵達、直閤将軍の胡子約や広陵県令の霍儁らを捕らえ、建康城下に送らせると、脅迫して「すでに邵陵王は捕らえられた」と口々に言わせた。霍儁はひとり「王はささやかな敗戦をなさったが、すでに全軍が京口に帰還している。城中はただ堅守していれば、援軍はまもなくやってくる」と言った。反乱兵が刀で霍儁を殴打したが、霍儁の言葉も顔色ももとのとおりであったため、侯景は義に感じてかれを許した。 この日、鄱陽世子蕭嗣と裴之高が後渚にいたり、蔡洲に陣営を張った。侯景は軍を分けて南岸に駐屯させた。 12月、侯景は飛楼・橦車・登城車・登堞車・階道車・火車といった攻城具を作り、城壁の前に並べた。火車で城の東南隅の大楼を焼くと、反乱軍は火勢に乗じて城を攻めようとしたが、城壁の上からも火を放たれて攻城具を焼き尽くされたため、反乱軍は撤退した。また土山を築いて城に迫ろうとしたが、城内から地下道が作られて土山を引き落としたため、これまた失敗した。材官将軍の宋嶷が反乱軍に降り、かれが一計を案じて、玄武湖の水を引いて台城に注いだ。さらに南岸の民居や寺が焼き尽くされた。 司州刺史の柳仲礼、衡州刺史の韋粲、南陵郡太守の陳文徹、宣猛将軍の李孝欽らが、建康救援のためにやってきた。鄱陽世子蕭嗣や裴之高もまた長江を渡った。柳仲礼は朱雀航の南に陣営を置き、裴之高は南苑に陣営を置き、韋粲は青塘に陣営を置き、陳文徹と李孝欽は丹陽郡に駐屯し、鄱陽世子蕭嗣は小航南に陣営を置き、いずれも秦淮河の縁に柵を造った。明け方になって侯景がこのことに気づくと、禅霊寺の門楼に登って見回し、韋粲の陣営の塁がまだ完全でないのを見つけると、先んじて兵を渡らせてこれを攻撃した。韋粲は抗戦したが敗れ、侯景は韋粲の首を斬って城下に見せつけて回った。柳仲礼は韋粲の敗北を聞くと、鎧を着ける間もなく、数十騎とともに駆けつけ、反乱軍と抗戦して、数百人を斬首し、秦淮河に身を投げて死んだ者は1000人あまりに及んだ。柳仲礼は深入りして、馬が泥にはまり、重傷を負った。 邵陵王蕭綸と臨成公蕭大連らが東道から南岸に集結した。荊州刺史の湘東王蕭繹が世子の蕭方等や司馬の呉曄や天門郡太守の樊文皎を建康救援のために派遣し、長江を下ると湘子岸の前に陣営を置いた。高州刺史の李遷仕や前司州刺史の羊鴉仁もまた兵を率いて相次いで到着した。鄱陽世子蕭嗣・永安侯蕭確・羊鴉仁・李遷仕・樊文皎が兵を率いて秦淮河を渡り、反乱軍の東府城前柵を攻撃して、これを破った。蕭嗣らは青渓水の東に陣営を結んだ。侯景は儀同の宋子仙を南平王の邸に派遣して駐屯させ、水縁の西に柵を立ててはばませた。 侯景の軍は糧食が尽きて、飢えに苦しんだ。東城には食糧が備蓄してあったが、そこまでの道は諸侯の援軍に遮断されていた。いっぽうの建康城内も米40万斛の備蓄はあったものの、魚や塩や薪が不足していた。そこで尚書省の建物を壊して薪とし、飼っていた馬を屠殺して食い尽くした。反乱軍が水源に毒を入れたために、腫れむくみの病が流行し、城中の病死者は過半を数えた。城内で防戦の指揮を執っていた羊侃がこの月に病没した。
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