偽りの和約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 19:15 UTC 版)
549年(太清3年)1月、侯景は年初から講和を願い出ていたが、武帝の許可が下りないでいた。しかし皇太子蕭綱の諫めを受けて、武帝はこれを聞き入れることとした。侯景は江右4州の地の割譲と、あわせて宣城王蕭大器の身柄を人質として要求し、その後に包囲を解いて長江を北に渡る条件を提示した。さらに侯景はその儀同の于子悦や左丞の王偉を建康に入城させて交換の人質とすることを許した。梁の中領軍の傅岐は宣城王蕭大器が皇太子の嫡嗣であることからこれを拒否し、代わりに石城公蕭大款を送るよう願い出た。この条件で両者は合意した。2月己亥、西華門の外に壇を設けて、梁の尚書僕射の王克や兼侍中の上甲郷侯蕭韶および兼散騎常侍の蕭瑳が、侯景側の于子悦や王偉らと壇に登って和約を誓った。梁の左衛将軍の柳津が西華門下を出ると、侯景がその柵門を出て、柳津と距離を取って相対し、犠牲の牛の血をすすった。 南兗州刺史の南康嗣王蕭会理、前青冀二州刺史の湘潭侯蕭退、西昌侯世子蕭彧の率いる兵3万が邛州に到着した。侯景はこの軍が白下城から北に展開して、長江への道を絶つことを恐れて、秦淮河の南岸に移るよう求めた。武帝は侯景の要求を呑んで蕭会理らを江潭苑に進軍させた。いっぽう侯景は言を左右にしながら、和約の条件を守らず、建康の包囲を解こうとしなかった。
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