建康を陥とす
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反乱が起こると、彭城王司馬雄・章武王司馬休らがこれに呼応して蘇峻の側に帰順した。328年2月、蘇峻は配下の韓晃・張健らを派遣して建康を包囲し、城内に兵を繰り出すと風に乗じて火を放ち、建康にある台・省や諸々の陣営・役所を瞬く間に尽く焼き落としてしまった。庾亮は弟の庾翼らと共に尋陽にいる温嶠の下へと逃亡し、まだ幼かった成帝以下、当時建康にいた朝廷の関係者全員が捕らえられた。 侍中の褚翜は「蘇冠軍は至尊(皇帝)に来観しにきたのであろう。どうして軍人が侵逼する様な真似をするのか!」と叱りつけたので、蘇峻の兵は敢えて上殿しなかった。ただ、それ以外については兵を放って大々的に掠奪を行ない、後宮を侵逼して宮女や太后直属の侍女を全て連れ去るなど、残酷無道を極めた。また蘇峻は百官らを駆り立て、光禄勲王彬らに鞭打ちを加えながら蔣山を登らせた。士女らは衣服まで奪われたので、筵や草をちぎって体を隠したが、草が手に入らぬ者は地に座り込んで土で体を覆う有様であり、人々が悲しみ叫ぶ声で内外が震動したという。 当時、官署には布20万匹・金銀5千斤・銭億万・絹数万匹及びこれに相当する様々な物資の備蓄があったが、蘇峻はこれらを全て使い果たした。その為、太官は焼け焦げた数石の米を御膳として帝に供するほかなかった。また、蘇峻は詔を詐称して大赦を下したが、庾亮兄弟はその対象外とした。王導は徳望を有していた事から官位はそのままで自らの側に使えさせ、祖約を侍中・太尉・尚書令に任じ、自らは驃騎領軍将軍・録尚書事を名乗った。弋陽王司馬羕は蘇峻の下を詣でると、その功績について詳述した事から、蘇峻は西陽王・太宰・録尚書事に復帰させ、その子である司馬播もまた元々の官位に復帰させた。さらには朝廷の重職を入れ替えて自らの親党らをこれに任じ、政事はその尽くを彼らに委ねた。また、韓晃には義興を、張健・管商・弘徽らには晋陵をそれぞれ守らせた。同月、蘇峻は兵を繰り出して呉国内史庾冰を攻めると、庾冰は郡を捨てて会稽へ逃走した。蘇峻は侍中蔡謨を後任の呉国内史に任じると共に、すぐさま懸賞金を掛けて庾冰捕縛を命じたが、逃げられてしまった。
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