建康を陥とすとは? わかりやすく解説

建康を陥とす

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 13:36 UTC 版)

蘇峻」の記事における「建康を陥とす」の解説

反乱が起こると、彭城王司馬雄章武王司馬休らがこれに呼応して蘇峻の側に帰順した328年2月蘇峻配下韓晃張健らを派遣して建康包囲し城内に兵を繰り出す風に乗じて火を放ち建康にある台・省や諸々陣営役所瞬く間尽く焼き落としてしまった。庾亮は弟の庾翼と共に尋陽にいる温嶠の下へと逃亡し、まだ幼かった成帝以下、当時建康にいた朝廷関係者全員捕らえられた。 侍中褚翜は「冠軍至尊皇帝)に来観しにきたのであろう。どうして軍人が侵逼する様な真似をするのか!」と叱りつけたので、蘇峻の兵は敢えて上殿しなかった。ただ、それ以外については兵を放って大々的掠奪行ない後宮を侵逼して宮女太后直属侍女全て連れ去るなど、残酷無道極めた。また蘇峻百官らを駆り立て光禄勲王彬らに鞭打ち加えながら蔣山を登らせた。士女らは衣服まで奪われたので、筵やちぎって体を隠したが、手に入らぬ者は地に座り込んで土で体を覆う有様であり、人々悲しみ叫ぶ声で内外震動したという。 当時官署には布20匹・金銀5千斤・銭億万・絹数万匹及びこれに相当する様々な物資備蓄があったが、蘇峻はこれらを全て使い果たした。その為、太官は焼け焦げた数石の米を御膳として帝に供するほかなかった。また、蘇峻は詔を詐称して大赦下したが、庾亮兄弟はその対象外とした。王導徳望有していた事から官位そのままで自らの側に使えさせ、祖約侍中太尉尚書令任じ、自らは驃騎領軍将軍録尚書事名乗った弋陽王司馬羕は蘇峻の下を詣でると、その功績について詳述した事から、蘇峻西陽王・太宰録尚書事復帰させ、その子である司馬播もまた元々の官位復帰させた。さらには朝廷重職入れ替えて自らの親党らをこれに任じ政事はその尽くを彼らに委ねたまた、韓晃には義興を、張健・管商・弘徽らには晋陵をそれぞれ守らせた。同月蘇峻は兵を繰り出して呉国内史庾冰攻めると、庾冰は郡を捨てて会稽逃走した蘇峻侍中蔡謨を後任呉国内史任じると共にすぐさま懸賞金掛けて庾冰捕縛命じたが、逃げられてしまった。

※この「建康を陥とす」の解説は、「蘇峻」の解説の一部です。
「建康を陥とす」を含む「蘇峻」の記事については、「蘇峻」の概要を参照ください。

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