簡文帝時代とは? わかりやすく解説

簡文帝時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 19:15 UTC 版)

侯景の乱」の記事における「簡文帝時代」の解説

侯景武帝の死を秘密にして喪を発せず昭陽殿で通夜をおこなわせた。二十数日して、梓宮天子)を太極前殿に昇らせ、皇太子蕭綱迎えて皇帝即位させた。これが簡文帝である。 侯景は儀同の来亮に兵を率いさせ宣城郡攻撃させたが、宣城郡内史楊華が来亮を誘い出してこれを斬らせた。侯景部将李賢明を派遣して楊華討たせると、楊華宣城郡とともに降伏した侯景は儀同の宋子仙らに東征させ、銭塘達したが、新城戍主の戴僧逷が新城県拠ってこれをはばんだ。 この月、侯景中軍侯子鑑派遣して呉郡に入らせ、于子悦や張大黒収監して建康連行させると、ふたりを処刑した。 ときに東揚州刺史の臨成公蕭大連が州城(会稽)に拠り呉興郡太守張嵊が郡城に拠り南陵郡より長江上流地方刺史太守たちがおのおの守っていた。このため侯景命令が及ぶ範囲は、呉郡以西および南陵郡以北のみであった6月侯景は儀同の郭元建を尚書僕射北道行台江北諸軍事とし、新秦に駐屯させた。 郡人陸緝・戴文挙らが1万人あまりで起兵し、侯景太守単于殺害して、前淮南郡太守文成侯寧を主に推し侯景をはばもうとした。宋子仙がこれを攻撃すると、陸緝らは城を放棄して逃走した。 至是、侯景蕭正徳永福省殺害した元羅西秦王に封じ、元景龍陳留王封じるなど、元氏の子弟で王に封じられる者は十数人に及んだ柳敬礼を使持節大都督とし、大丞相に属させ、軍事参与させた。 侯景中軍侯子鑑や監行台の劉神茂らの軍を派遣して東征させ、呉興郡攻め破った呉興郡太守張嵊父子捕らえて建康送らせると、侯景張嵊らを殺害した侯景宋子仙司徒とし、任約を領軍将軍とし、爾季伯・叱羅子通・彭儁・董紹先・張化仁・于慶・伯和・紇奚斤・史安和・時霊護・劉帰義らをみな開府儀同三司とした。 この月、鄱陽嗣王蕭範が兵を率いて柵口宿営し江州刺史尋陽蕭大心がこれを迎えるために西上した。侯景姑孰出撃すると、蕭範部将の裴之悌や夏侯威生が侯景降った7月広州刺史元景仲侯景につこうしたため西江督護の陳霸先起兵してこれを攻撃した元景仲自殺し陳霸先定州刺史蕭勃刺史迎えた11月侯景宋子仙銭塘攻撃させ、戴僧逷を降した侯景銭塘臨江郡とし、富陽富春郡とした。さらに王偉元羅そろって儀同三司とした。 12月侯景宋子仙趙伯超・劉神茂らを派遣して会稽進攻させた。東揚州刺史の臨成公蕭大連が城を捨てて敗走したため、劉神茂に追わせてこれを捕らえた侯景は裴之悌を使持節・平西将軍合州刺史とし、夏侯威生を使持節平北将軍南豫州刺史とした。 この月、百済使者がやってきたが、建康城邑廃墟となっているのを見て、端門の外で号泣した侯景がこのことを聞く激怒して使者身柄を小荘厳寺送って拘禁し出入りを許さなかった。 550年大宝元年1月、前江都県令の祖皓が広陵起兵し、侯景の南兗州刺史董紹先を斬り、前太子舎人勔を推して刺史とした。祖皓は東魏結んでその援助期待し遠近飛ばして侯景討とう図った侯景その日のうちに侯子鑑らを率いて京口から出撃し、水陸より祖皓を攻撃した2月侯景広陵城を攻め落とした侯景は祖皓を車裂きにし、広陵城中の者たちを老若問わずみな斬殺した。侯景侯子鑑を監南兗州事とした。侯景簡文帝迫って西州城にその身を移させた。 この月、侯景宋子仙京口召還した4月侯景は元思虔を東道行台とし、銭塘駐屯させた。侯子鑑を南兗州刺史とした。 文成侯寧が呉郡西郷起兵し、10日ほどの間に1万の兵を集めて西上した。侯景の廂公の孟振と侯子栄がこれを撃破し寧を斬り、その首級侯景伝えた5月鄱陽嗣王蕭範死去した6月前司刺史羊鴉仁尚書省から西州城に逃亡した7月侯景部将任約と盧暉略が晋熙郡攻撃し鄱陽世子嗣を殺害した侯景王偉中書監とした。任約が軍を進めて江州襲撃し江州刺史尋陽蕭大心がこれに降った蕭繹江州失陥聞いて、衛軍将軍徐文盛派遣して武昌東下させ、任約をはばませた。 8月湘東蕭繹が領軍将軍王僧弁に兵を与えて郢州に迫らせた。侯景は自ら位を相国進め泰山郡など20郡に自らを封じて漢王となり、剣履上殿入朝不趨・賛拝不名の特権得た。邵陵王蕭綸郢州放棄して逃亡した侯景柳敬礼護軍将軍とし、姜詢義を相国長史とし、徐洪を左司馬とし、陸約を右長史とし、沈衆を右司馬とした。 この月、侯景水軍率いて皖口に遡上した。 10月武林諮が広門で賊に殺害された。諮は常に簡文帝寝室出入りしており、侯景一党制御を受けなかったために排除されたものである侯景は自らに宇宙大将軍都督六合諸軍事を加官した。詔文を呈示され簡文帝は「将軍宇宙の号なんてあるのか」と驚愕したと伝わる。 北斉将軍辛術陽平包囲したため、侯景行台の郭元建が援軍赴くと、辛術撤退した徐文盛が資磯に入ったため、任約水軍率いて迎え戦った徐文盛任約破り大挙口に進軍した。 ときに侯景は皖口に駐屯しており、建康手薄であったことから、南康蕭会理と北兗州司馬の成欽らが建康襲撃しようとしていた。建安賁がその計画知って侯景報告すると、侯景蕭会理とその弟の祁陽通理・柳敬礼・成欽らを収監させ、そろって殺害させた。 11月任約西陽郡進軍し、兵を分けて斉昌郡を攻撃した任約衡陽王献を捕らえて建康送り献は殺害された。 12月侯景簡文帝の詔と偽って賁を竟陵王に封じ南康陰謀暴いた褒美とした。 この月、張彪が会稽郡の若邪山で義軍起こし上虞県攻め破った侯景会稽郡太守の蔡台楽がこれを討とうとしたが、制圧できなかった。張彪は諸曁永興などの諸県攻め落とし侯景は儀同の田遷・趙伯超・謝答仁らを東方派遣して張彪を討たせた。 551年大宝2年1月、張彪は別将を派遣して銭塘富春攻撃した。田遷が進軍してこれと戦って破った侯景王克太師とし、宋子仙太保とし、元羅太傅とし、郭元建を太尉とし、張化仁を司徒とし、任約司空とし、于慶を太子太師とし、時霊護を太子太保とし、紇奚斤太子太傅とし、王偉尚書左僕射とし、索超世を尚書右僕射とした。 北兗州刺史邕が東魏降ろう図って、事が漏れて侯景殺害された。 この月、湘東蕭繹巴州刺史王珣らに兵を率いて武昌東下させ、徐文盛助けさせた。任約蕭繹麾下兵力増えていることから、侯景に急を告げさせた。 3月侯景は自ら兵2万率いて西上し、任約救援した4月侯景西陽宿営した徐文盛水軍率いて迎え戦い侯景軍を大い破った侯景郢州の兵が少ないのを知って宋子仙軽騎300与えて郢州襲撃させた。郢州刺史蕭方諸や行事の鮑泉捕らえ武昌軍人家族たちことごとく拘束した徐文盛らがこのことを聞くと、江陵逃げ帰った侯景勝利乗じて西上した。 閏月、領軍の王僧弁が巴陵に宿営しており、侯景西上遭遇すると、城の堅壁に拠ってこれをはばんだ。侯景長囲設けて土山築き昼夜分かたず攻撃させたが、攻め落とせなかった。侯景軍中疫病発生し死傷者過半数えた5月湘東蕭繹平北将軍胡僧祐に兵2000人を与えて巴陵を救援させた。侯景はこれを聞くと、任約精兵数千与えて胡僧祐迎え撃たせた。 6月胡僧祐居士陸法和とともに赤亭に退いてこれを待ち任約会戦して勝利し任約生け捕りにした。侯景敗戦聞くと、夜間逃走した。丁和を郢州刺史とし、宋子仙や時霊護らを留め郢州を守らせ、張化仁や閻洪慶に山城を守らせた。王僧弁は兵を率いて東下し、漢口宿営し山城および郢州城を攻撃していずれも陥落させた。 7月侯景建康帰還した王僧弁の軍が湓城に宿営し侯景の行江州事の范希栄が城を捨てて逃走した8月丙午晋熙郡の王僧振と鄭寵が起兵して郡城を襲い侯景晋州刺史夏侯威生や儀同の任延は逃走した戊午侯景衛尉卿の彭儁や廂公の王僧貴に兵を与えて入殿させ、簡文帝廃位して晋安王に降格させ、永福省幽閉した。皇太子蕭大器尋陽蕭大心西陽大鈞・武寧王蕭大威建平大球・義安大昕および尋陽王の諸子20人を殺害した

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