簡文帝時代
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侯景は武帝の死を秘密にして喪を発せず、昭陽殿で通夜をおこなわせた。二十数日して、梓宮(天子の棺)を太極前殿に昇らせ、皇太子蕭綱を迎えて皇帝に即位させた。これが簡文帝である。 侯景は儀同の来亮に兵を率いさせ宣城郡を攻撃させたが、宣城郡内史の楊華が来亮を誘い出してこれを斬らせた。侯景が部将の李賢明を派遣して楊華を討たせると、楊華は宣城郡とともに降伏した。侯景は儀同の宋子仙らに東征させ、銭塘に達したが、新城戍主の戴僧逷が新城県に拠ってこれをはばんだ。 この月、侯景は中軍の侯子鑑を派遣して呉郡に入らせ、于子悦や張大黒を収監して建康に連行させると、ふたりを処刑した。 ときに東揚州刺史の臨成公蕭大連が州城(会稽)に拠り、呉興郡太守の張嵊が郡城に拠り、南陵郡より長江上流の地方は刺史や太守たちがおのおの守っていた。このため侯景の命令が及ぶ範囲は、呉郡以西および南陵郡以北のみであった。 6月、侯景は儀同の郭元建を尚書僕射・北道行台・江北諸軍事とし、新秦に駐屯させた。 郡人陸緝・戴文挙らが1万人あまりで起兵し、侯景の太守の蘇単于を殺害して、前淮南郡太守の文成侯蕭寧を主に推し、侯景をはばもうとした。宋子仙がこれを攻撃すると、陸緝らは城を放棄して逃走した。 至是、侯景は蕭正徳を永福省で殺害した。元羅を西秦王に封じ、元景龍を陳留王に封じるなど、元氏の子弟で王に封じられる者は十数人に及んだ。柳敬礼を使持節・大都督とし、大丞相に属させ、軍事に参与させた。 侯景は中軍の侯子鑑や監行台の劉神茂らの軍を派遣して東征させ、呉興郡を攻め破った。呉興郡太守の張嵊父子を捕らえて建康に送らせると、侯景は張嵊らを殺害した。 侯景は宋子仙を司徒とし、任約を領軍将軍とし、爾朱季伯・叱羅子通・彭儁・董紹先・張化仁・于慶・魯伯和・紇奚斤・史安和・時霊護・劉帰義らをみな開府儀同三司とした。 この月、鄱陽嗣王蕭範が兵を率いて柵口に宿営し、江州刺史の尋陽王蕭大心がこれを迎えるために西上した。侯景が姑孰に出撃すると、蕭範の部将の裴之悌や夏侯威生が侯景に降った。 7月、広州刺史の元景仲が侯景につこうとしたため、西江督護の陳霸先が起兵してこれを攻撃した。元景仲は自殺し、陳霸先は定州刺史の蕭勃を刺史に迎えた。 11月、侯景は宋子仙に銭塘を攻撃させ、戴僧逷を降した。侯景は銭塘を臨江郡とし、富陽を富春郡とした。さらに王偉と元羅をそろって儀同三司とした。 12月、侯景は宋子仙・趙伯超・劉神茂らを派遣して会稽に進攻させた。東揚州刺史の臨成公蕭大連が城を捨てて敗走したため、劉神茂に追わせてこれを捕らえた。侯景は裴之悌を使持節・平西将軍・合州刺史とし、夏侯威生を使持節・平北将軍・南豫州刺史とした。 この月、百済の使者がやってきたが、建康の城邑が廃墟となっているのを見て、端門の外で号泣した。侯景がこのことを聞くと激怒して、使者の身柄を小荘厳寺に送って拘禁し、出入りを許さなかった。 550年(大宝元年)1月、前江都県令の祖皓が広陵で起兵し、侯景の南兗州刺史の董紹先を斬り、前太子舎人の蕭勔を推して刺史とした。祖皓は東魏と結んでその援助に期待し、遠近に檄を飛ばして、侯景を討とうと図った。侯景はその日のうちに侯子鑑らを率いて京口から出撃し、水陸より祖皓を攻撃した。 2月、侯景は広陵城を攻め落とした。侯景は祖皓を車裂きにし、広陵城中の者たちを老若問わずみな斬殺した。侯景は侯子鑑を監南兗州事とした。侯景は簡文帝に迫って西州城にその身を移させた。 この月、侯景は宋子仙を京口に召還した。 4月、侯景は元思虔を東道行台とし、銭塘に駐屯させた。侯子鑑を南兗州刺史とした。 文成侯蕭寧が呉郡西郷で起兵し、10日ほどの間に1万の兵を集めて西上した。侯景の廂公の孟振と侯子栄がこれを撃破し、蕭寧を斬り、その首級を侯景に伝えた。 5月、鄱陽嗣王蕭範が死去した。 6月、前司州刺史の羊鴉仁が尚書省から西州城に逃亡した。 7月、侯景の部将の任約と盧暉略が晋熙郡を攻撃し、鄱陽世子蕭嗣を殺害した。侯景は王偉を中書監とした。任約が軍を進めて江州を襲撃し、江州刺史の尋陽王蕭大心がこれに降った。蕭繹は江州の失陥を聞いて、衛軍将軍の徐文盛を派遣して武昌に東下させ、任約をはばませた。 8月、湘東王蕭繹が領軍将軍の王僧弁に兵を与えて郢州に迫らせた。侯景は自ら位を相国に進め、泰山郡など20郡に自らを封じて漢王となり、剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名の特権を得た。邵陵王蕭綸が郢州を放棄して逃亡した。 侯景は柳敬礼を護軍将軍とし、姜詢義を相国左長史とし、徐洪を左司馬とし、陸約を右長史とし、沈衆を右司馬とした。 この月、侯景は水軍を率いて皖口に遡上した。 10月、武林侯蕭諮が広莫門で賊に殺害された。蕭諮は常に簡文帝の寝室に出入りしており、侯景の一党の制御を受けなかったために排除されたものである。 侯景は自らに宇宙大将軍・都督六合諸軍事を加官した。詔文を呈示された簡文帝は「将軍に宇宙の号なんてあるのか」と驚愕したと伝わる。 北斉の将軍の辛術が陽平を包囲したため、侯景の行台の郭元建が援軍に赴くと、辛術は撤退した。 徐文盛が資磯に入ったため、任約が水軍を率いて迎え戦った。徐文盛は任約を破り、大挙口に進軍した。 ときに侯景は皖口に駐屯しており、建康が手薄であったことから、南康王蕭会理と北兗州司馬の成欽らが建康を襲撃しようとしていた。建安侯蕭賁がその計画を知って侯景に報告すると、侯景は蕭会理とその弟の祁陽侯蕭通理・柳敬礼・成欽らを収監させ、そろって殺害させた。 11月、任約が西陽郡に進軍し、兵を分けて斉昌郡を攻撃した。任約は衡陽王蕭献を捕らえて建康に送り、蕭献は殺害された。 12月、侯景は簡文帝の詔と偽って蕭賁を竟陵王に封じ、南康の陰謀を暴いた褒美とした。 この月、張彪が会稽郡の若邪山で義軍を起こし、上虞県を攻め破った。侯景の会稽郡太守の蔡台楽がこれを討とうとしたが、制圧できなかった。張彪は諸曁や永興などの諸県を攻め落とし、侯景は儀同の田遷・趙伯超・謝答仁らを東方に派遣して張彪を討たせた。 551年(大宝2年)1月、張彪は別将を派遣して銭塘や富春を攻撃した。田遷が進軍してこれと戦って破った。 侯景は王克を太師とし、宋子仙を太保とし、元羅を太傅とし、郭元建を太尉とし、張化仁を司徒とし、任約を司空とし、于慶を太子太師とし、時霊護を太子太保とし、紇奚斤を太子太傅とし、王偉を尚書左僕射とし、索超世を尚書右僕射とした。 北兗州刺史の蕭邕が東魏に降ろうと図って、事が漏れて侯景に殺害された。 この月、湘東王蕭繹が巴州刺史の王珣らに兵を率いて武昌に東下させ、徐文盛を助けさせた。任約は蕭繹麾下の兵力が増えていることから、侯景に急を告げさせた。 3月、侯景は自ら兵2万を率いて西上し、任約を救援した。 4月、侯景は西陽に宿営した。徐文盛は水軍を率いて迎え戦い、侯景軍を大いに破った。侯景は郢州の兵が少ないのを知って、宋子仙に軽騎300を与えて郢州を襲撃させた。郢州刺史の蕭方諸や行事の鮑泉を捕らえ、武昌の軍人の家族たちをことごとく拘束した。徐文盛らがこのことを聞くと、江陵に逃げ帰った。侯景は勝利に乗じて西上した。 閏月、領軍の王僧弁が巴陵に宿営しており、侯景の西上に遭遇すると、城の堅壁に拠ってこれをはばんだ。侯景は長囲を設けて、土山を築き、昼夜分かたず攻撃させたが、攻め落とせなかった。侯景の軍中に疫病が発生し、死傷者は過半を数えた。 5月、湘東王蕭繹は平北将軍の胡僧祐に兵2000人を与えて巴陵を救援させた。侯景はこれを聞くと、任約に精兵数千を与えて胡僧祐を迎え撃たせた。 6月、胡僧祐は居士の陸法和とともに赤亭に退いてこれを待ち、任約と会戦して勝利し、任約を生け捕りにした。侯景は敗戦を聞くと、夜間に逃走した。丁和を郢州刺史とし、宋子仙や時霊護らを留めて郢州を守らせ、張化仁や閻洪慶に魯山城を守らせた。王僧弁は兵を率いて東下し、漢口に宿営し、魯山城および郢州城を攻撃して、いずれも陥落させた。 7月、侯景は建康に帰還した。王僧弁の軍が湓城に宿営し、侯景の行江州事の范希栄が城を捨てて逃走した。 8月丙午、晋熙郡の王僧振と鄭寵が起兵して郡城を襲い、侯景の晋州刺史の夏侯威生や儀同の任延は逃走した。戊午、侯景は衛尉卿の彭儁や廂公の王僧貴に兵を与えて入殿させ、簡文帝を廃位して晋安王に降格させ、永福省に幽閉した。皇太子蕭大器・尋陽王蕭大心・西陽王蕭大鈞・武寧王蕭大威・建平王蕭大球・義安王蕭大昕および尋陽王の諸子20人を殺害した。
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