侯子鑑とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 侯子鑑の意味・解説 

侯子鑑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/13 03:33 UTC 版)

侯 子鑑(侯子鑒、こう しかん、生没年不詳)は、侯景の部将。侯景の乱で活躍した。

経歴

前半生は定かではない。侯景に仕えて、中軍となった。太清3年(549年)5月、呉郡に入って、于子悦と張大黒を収監して建康に連れ帰り、これを処刑した[1]。6月、劉神茂らとともに東征して、呉興郡を陥落させ、太守張嵊父子を捕らえて建康に送った[1][2]

大宝元年(550年)1月、前の江都県令の祖皓が広陵で起兵したため、侯景は子鑑らを率いて京口から出撃し、広陵城を陥落させた。子鑑は監南兗州事となった[1]。4月、南兗州刺史となった[1]

太始元年(551年)11月、侯景の皇帝即位にあたって、子鑑は白麞を献上した[1]

太始2年(552年)1月、子鑑は水軍を率いて濡須に向かい、淝水に兵を遊弋させて示威した。子鑑は合肥に到着すると、羅城を攻撃して陥落させた。まもなく湘東王蕭繹の軍が近づいていると聞くと、子鑑は郭元建とともに合肥の民衆の住居を焼き払い、撤退して姑孰を守った[1]王僧弁の軍が蕪湖にやってくると、蕪湖城主が逃走したため、侯景は史安和や宋長貴らに兵2000を与えて姑孰に派遣し、子鑑を助けた[1]。3月、子鑑は侯景の戒めを守って城柵に籠もっているあいだ、王僧弁を足止めできたものの、王僧弁をあなどって出撃したところ、迎撃されて大敗した[1][3]。王僧弁は張公洲に進軍し、石頭城を攻撃した。子鑑は侯景の指揮下で石頭城の東北に柵を立てて防戦したが、王僧弁に敗れて敗走した[1]。侯景が台城を王偉に任せて逃亡すると、子鑑は広陵に逃れた[1][3]。郭元建が降伏しようとしたが、子鑑は「これ小恵なり。自ら全うするに足らざるなり」といさめた。そこで北斉に亡命した[3]

天保10年(559年)、北斉の慕容儼や王貴顕とともに蕭荘を護送した。郭黙・若邪の2城を築いた。

子鑑の晩年はまた明らかではない。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j 梁書』巻56 侯景伝
  2. ^ 梁書』巻43 張嵊伝
  3. ^ a b c 南史』巻80 賊臣伝



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「侯子鑑」の関連用語

侯子鑑のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



侯子鑑のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの侯子鑑 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS