豫章王擁立と侯景称帝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 19:15 UTC 版)
この日、侯景は豫章王蕭棟を迎えて皇帝に即位させた。太極前殿に昇り、天下に大赦し、天正元年と改元した。侯景は使者を派遣して南海王蕭大臨を呉郡で、南郡王蕭大連を姑孰で、安陸王蕭大春を会稽で、新興王蕭大荘を京口で殺害させた。 侯景は劉神茂を司空とし、徐洪を平南将軍とし、秦晃之・王曄・李賢明・徐永・徐珍国・宋長宝・尹思合をあわせて儀同三司とした。 侯景は哀太子蕭大器の妃を郭元建に賜ったが、郭元建は「どうして皇太子妃が人の妾に下ることがあろうか」と言って、会おうとしなかった。 10月壬寅夜、侯景は衛尉の彭儁や王脩纂に酒を持たせて簡文帝に献上し、簡文帝が泥酔して寝入ったところを大量の土嚢を積んで圧死させた。 この月、侯景の司空東道行台の劉神茂や儀同の尹思合・劉帰義・王曄、雲麾将軍の桑乾王元頵らが東陽に拠って湘東王蕭繹に帰順した。蕭繹はそのまま元頵と別将の李占と趙恵朗を建徳江口に拠らせた。尹思合は侯景の新安郡太守の元義を拘束して、その兵を奪った。 張彪が永嘉郡を攻撃し、永嘉郡太守の秦遠が張彪に降った。 11月、侯景は趙伯超を東道行台とし、銭塘に駐屯させた。儀同の田遷や謝答仁らに東方の劉神茂を攻撃させた。郭元建を太尉・北行台のまま南兗州刺史とした。 侯景は自ら九錫の礼を加え、丞相以下の百官を置いた。南兗州刺史の侯子鑑により白麞が献上され、建康では白鼠が捕られて献上されるなど、瑞祥が演出された。侯景の亡き祖父に大将軍を、亡父に丞相の位が追贈された。自ら冕官を加え、天子の旌旗を建て、馬や車や舞楽など皇帝の礼式を整えた。 侯景は蕭棟の詔により帝位を自分に譲らせた。禅譲の儀式を旧制にのっとっておこなったものの、侯景はゆえなく剣を取り落とし、ウサギが目の前を横切っては消え失せ、白虹が日を貫くなど、不吉なことが続いた。侯景は太極前殿に昇り、天下に大赦し、太始元年と改元した。蕭棟を淮陰王に封じて、監省に幽閉した。梁律を漢律とし、左民尚書を改めて殿中尚書とし、五兵尚書を七兵尚書とし、直殿主帥を直寝とした。左僕射の王偉が(儒教に即して)皇帝の祖先の廟として七廟を立てるべきと進言したところ、侯景は「先祖のことは覚えていないが、父の名なら標だ」と答えたため、人々はみなひそかにこれを笑った。 12月、謝答仁や李慶らが建徳にいたり、元頵や李占の柵を攻撃して破った。元頵と李占を捕らえて侯景のもとに送った。侯景は元頵らの手足を切り落とすと、日が経ってからふたりは死んだ。
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