侯景の敗亡とは? わかりやすく解説

侯景の敗亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 19:15 UTC 版)

侯景の乱」の記事における「侯景の敗亡」の解説

侯景は巴陵の敗戦以来西方では敗北続きであった混乱乗じて北斉の軍が南進し、湘東蕭繹東征軍挟み討ちになることを侯景恐れた、そこで552年太始2年1月、郭元建に歩兵率いて小峴に赴かせ、侯子鑑水軍率いて濡須に向かわせ、北斉に対して兵力示威した。侯子鑑合肥達し羅城攻め落とした。郭元建と侯子鑑湘東蕭繹の軍が接近していると聞いて合肥民衆住居を焼かせ、軍を撤退して侯子鑑姑孰保ち、郭元建は広陵帰った東南方では謝答仁が劉神茂攻撃し、劉神茂の別将の王華と麗通を降し、劉帰義や尹思合らを敗走させるなど、侯景側の優勢がまだ目立っていた。 王僧弁の軍が蕪湖やってくると、侯景側の蕪湖城主日没後に逃走した侯景は史安和や宋長貴らに兵2000率いさせて、姑孰を守る侯子鑑助けさせた。史安和らは田遷らを追って建康戻った3月侯景姑孰行き、塁柵を巡視した侯景侯子鑑に出戦を戒めたため、侯子鑑言いつけ守っていた十数日間王僧弁足止めできたものの、敵をあなどって出撃すると、侯子鑑大敗喫した王僧弁進軍して張公洲に宿営すると、侯景は盧暉略に石頭城を守らせ、紇奚斤に捍国城を守らせ、民衆や軍士の家族たち台城内に入れた王僧弁侯景側の柵を焼くと、秦淮河入り、祥霊寺渚に達した侯景驚いて秦淮河の縁に石頭城から朱雀航に達する柵を立てさせた。王僧弁諸将石頭城の西に陣営連ねて柵を立て落星墩にまで及んだ侯景は自ら侯子鑑・于慶・史安和・王僧貴らを率いて石頭城東北に柵を立てて守った王偉索超世・呂季略に台城を守らせ、宋長貴に延祚寺を守らせた。王僧弁の父の墓を暴いて、壊し遺骨を焼かせた。王僧弁らは陣営石頭城の北に進め侯景は陣を並べて戦い挑んだ王僧弁大軍率いて猛攻加え侯景軍を撃破した侯子鑑・史安和・王僧貴はおのおの柵を放棄して逃亡し、盧暉略と紇奚斤降伏した侯景王偉諫め聞かず建康宮殿放棄して東に逃走した。儀同の田遷や范希栄ら100騎を従えるのみであった王偉台城捨てて逃走し侯子鑑らは広陵逃れた王僧弁部将侯瑱侯景を追わせた。侯景晋陵郡到着すると、太守の徐永東を拉致して呉郡逃れた侯景嘉興進んで宿営すると、趙伯超銭塘拠って侯景をはばんだ。侯景呉郡引き返し松江達した侯瑱の軍がやってくると、侯景の兵たちは戦う準備もせず、みな旗を上げて降伏した侯景止めることができず、そのまま腹心数十とともに舟を走らせ、推墮ふたりの子落とし、滬瀆から海に入った。壺豆洲にいたって侯景は前太子舎人羊鵾羊侃三男)に殺害された。侯景遺体王僧弁のもとに送られ、首を切断された。侯景首級江陵送られ、首より下の体は建康の市にさらされた。侯景恨みを持つ人々争ってその肉を削り取り、膾にして食いつくしてしまった。残った骨も焼かれて灰にされ、酒と混ぜ合わされ飲まれた。江陵送られ侯景首級は、蕭繹の命により市にさらされその後煮つめて漆にされ、武庫送られた。

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