侯景の乱と湘東王承制とは? わかりやすく解説

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侯景の乱と湘東王承制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 06:27 UTC 版)

元帝 (南朝梁)」の記事における「侯景の乱と湘東王承制」の解説

太清3年549年3月東魏から亡命してきた侯景反乱起こし建康陥落し武帝抑留された。4月太子舎人韶(蕭懿の子淵猷の子)が武帝密詔建康から江陵届けたとされる湘東蕭繹はこれにより司徒の位を受け、承制することとなった。承制とは皇帝代行することを意味する5月武帝建康死去し侯景により簡文帝擁立されたが、蕭繹はその即位認めず江陵で独自の政権運営したこのため湘州拠る河東蕭誉益州拠る武陵蕭紀など、他の皇族たちとも対立することとなった6月蕭繹は子の蕭方等湘州派遣して河東蕭誉攻撃したが、蕭方等蕭誉敗れて横死した。7月蕭方等代えて鮑泉派遣したが、やはり敗れたため、王僧弁湘州派遣した。 翌太清4年/大宝元年550年5月王僧弁攻撃により湘州陥落させ、河東蕭誉を斬った。さかのぼって同年9月蕭繹の甥(蕭誉の弟)で襄陽拠る岳陽蕭詧江陵攻撃した蕭繹蕭詧攻撃撃退したが、蕭詧西魏頼り蕭繹にとっての敵対勢力であり続けた侯景に対して徐文盛らを東下させたが、太清5年/大宝2年551年4月侯景部将宋子仙郢州陥落させたため、不利に陥るかと思われた。しかし、5月侯景王僧弁の守る巴陵を攻撃して敗れたあたりから、形勢変わりはじめた6月には王僧弁郢州奪回8月には湓城を落とした。翌太清6年/太始2年552年3月王僧弁陳霸先らが建康陥落させ、逃亡した侯景部下殺害されて、侯景の乱終息した。 同年承聖元年11月蕭繹江陵皇帝即位した即位後も旧都である建康入らず江陵留まり続けた

※この「侯景の乱と湘東王承制」の解説は、「元帝 (南朝梁)」の解説の一部です。
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