侯景の乱と湘東王承制
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「元帝 (南朝梁)」の記事における「侯景の乱と湘東王承制」の解説
太清3年(549年)3月、東魏から亡命してきた侯景が反乱を起こし、建康が陥落し、武帝は抑留された。4月、太子舎人の蕭韶(蕭懿の子の蕭淵猷の子)が武帝の密詔を建康から江陵に届けたとされる。湘東王蕭繹はこれにより司徒の位を受け、承制することとなった。承制とは皇帝を代行することを意味する。5月に武帝が建康で死去し、侯景により簡文帝が擁立されたが、蕭繹はその即位を認めず、江陵で独自の政権を運営した。このため湘州に拠る河東王蕭誉や益州に拠る武陵王蕭紀など、他の皇族たちとも対立することとなった。6月、蕭繹は子の蕭方等を湘州に派遣して、河東王蕭誉を攻撃したが、蕭方等は蕭誉に敗れて横死した。7月、蕭方等に代えて鮑泉を派遣したが、やはり敗れたため、王僧弁を湘州に派遣した。 翌太清4年/大宝元年(550年)5月、王僧弁の攻撃により湘州を陥落させ、河東王蕭誉を斬った。さかのぼって同年9月、蕭繹の甥(蕭誉の弟)で襄陽に拠る岳陽王蕭詧が江陵を攻撃した。蕭繹は蕭詧の攻撃を撃退したが、蕭詧は西魏を頼り、蕭繹にとっての敵対勢力であり続けた。侯景に対しては徐文盛らを東下させたが、太清5年/大宝2年(551年)4月に侯景の部将の宋子仙が郢州を陥落させたため、不利に陥るかと思われた。しかし、5月に侯景が王僧弁の守る巴陵を攻撃して敗れたあたりから、形勢が変わりはじめた。6月には王僧弁が郢州を奪回。8月には湓城を落とした。翌太清6年/太始2年(552年)3月に王僧弁や陳霸先らが建康を陥落させ、逃亡した侯景は部下に殺害されて、侯景の乱は終息した。 同年(承聖元年)11月、蕭繹は江陵で皇帝に即位した。即位後も旧都である建康に入らず、江陵に留まり続けた。
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