侯景、梁に降る
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侯景は懐朔鎮出身の軍人であり、若くして高歓と友情を結んだ。はじめ爾朱栄に仕え、爾朱氏が滅亡すると高歓に仕えて、その征戦に従った。高歓が孝静帝を擁立して東魏を建国すると、侯景はその下で司徒・南道行台となり、10万の大軍を率いるまでになり、東魏の河南地方の軍事を専断した。 高歓の病が重くなると、「侯景は狡猾で計略が多く、反覆を察知しにくいので、私の死後はおまえが任用することはできないだろう」と、子の高澄に遺言した。侯景はこのことを知って、禍が及ぶのを恐れた。547年(東魏の武定5年、梁の太清元年)1月丙午、高歓が晋陽で死去した。辛亥、侯景は潁城に拠って東魏から離反した。東魏の潁州刺史の司馬世雲が侯景に呼応した。侯景は東魏の豫州刺史の高元成、襄州刺史の李密、広州刺史の暴顕らを誘って捕らえた。東魏は韓軌・可朱渾元・劉豊らを派遣して侯景を討たせたので、侯景は西魏に遣使して救援を求めた。西魏は李景和や王思政を派遣した。王思政らが潁川に入ったが、侯景は豫州に逃げ出してしまった。2月、侯景は王偉の献策を容れて、行台郎中の丁和を梁に派遣して帰順した。梁の武帝は侯景を河南王に封じ、大将軍・使持節・都督河南南北諸軍事・大行台に任じた。 東魏の高澄は大将軍の慕容紹宗を派遣して侯景を長社で包囲させた。侯景が西魏に救援を要請し、西魏が五城王元慶らを派遣して侯景を救援させると、慕容紹宗は撤退した。侯景がまた梁の司州刺史の羊鴉仁に援兵を要請し、羊鴉仁が長史の鄧鴻に兵を与えて汝水に向かわせると、元慶軍は夜間に逃走した。侯景が懸瓠と項城に刺史の派遣を求めると、梁の武帝は羊鴉仁を豫司二州刺史として懸瓠に移鎮させ、西陽郡太守の羊思建を殷州刺史として項城に駐屯させた。 12月、侯景は東魏の譙城を包囲して落とせず、転進して城父を攻撃して陥落させた。侯景は行台左丞の王偉や左民郎中の王則を建康の朝廷に派遣して、元氏の子弟を魏主に立てて、北伐を助けるよう求めた。武帝は太子舎人の元貞を咸陽王とし、長江を渡らせると、魏帝と称させた。
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